夕かげる桜木のもとわが想ふひとりのために花よやすらへ

鈴木正博『海山の羇旅』(1996年)

 

鈴木正博は、國學院大學文学部入学以来、もっとも親しい友人であった。折口博士記念古代研究所の万葉集研究会に入って岡野弘彦に師事、短歌を作りはじめて「人」短歌会に入会。「人」解散後は、成瀬有を中心に歌誌「白鳥」に参加、全て同じ道を歩んできた。

その鈴木正博が、クモ膜下出血によって亡くなったのは1995年9月20日未明であった。一週間ほど前から激しい頭痛に休んでいて、19日午前中に大学病院で検査を受けていたという。夜中トイレに立ってそのまま亡くなった。38歳であった。翌月には結婚の予定であった。

大学の同じクラスになって20年、その2年後から18年間、同じ場所で同じように短歌を作ってきた、いわば同志である。ちょうど私が第一歌集を準備しているところだった。次は彼だ。そう言いもし、そのために準備するように何度も促していた。そのつもりでいたと思う。しかし、手を付ける前に、おそらく結婚のことがあって準備は中断されていたのだろう、歌集を出すことなく命が絶たれた。

彼の死後すぐに歌集をという声が友人たちのあいだに起こった。一冊に成るに十分な質と量の作品が残されていた。

 

航く船の舳先を掠め飛び立てる鴎のむねの白きあはれさ

きりぎしのきはまで群るる菜の花の春のふかみに陽は澄みてをり

うす蒼き斑雪(はたれ)の山をあふぎつつ吉野へ続く峠(たわ)越えむとす

唇に小豆の粒をすりつけし跡くろぐろと飢餓地蔵立つ

断崖の片側迫る磯村は昼の日照雨(そばへ)に黒く濡れゆく

 

友人たちの手によって刊行された『海山の羇旅』(砂子屋書房)に載る初期の歌である。着実に短歌定型を自分のものにしていることがわかる。旅の叙景の歌が彼の本領であり、実際学生時代からよく共に旅に出たものだ。私がつまらぬ自我のこだわっているあいだに彼はすでに自分の歌の世界をつかみはじめていた。千葉県に生まれ育ったこともあって、古泉千樫、佐藤佐太郎を意識して、こつこつと写生を学んだ形跡がある。決して器用ではないが着実に実力を蓄えていった。

岡野弘彦のもとで一人短歌を作っていた今泉重子(かさね)が、歌誌「白鳥」に加わったのは、1994年であったろうか。独身同士でもあり恋が芽生えるまでにはそうかからなかった。照れ屋の彼は、恋の歌もぎこちなかったが、彼女は清らかに二人の間を歌った。このまま明るい家庭が出来るのだろう、そして琢磨しあった短歌の世界が紡がれてゆくものと信じて疑わなかった。

 

汝が記憶いだきてくらき水の辺に立つ我が胸に蛍寄りくる

雨やみて芙蓉の花のにほひ濃くただよふゆふべ君に逢ひにゆく

恋着に傾くこころ肌へ焼く日盛りのなかひとりたたずむ

 

不器用だが、優しい彼のひかえめな恋情が、これらの歌からも覗けてくるだろう。それが突然の死である。私どもにも驚きであったが、一月後に結婚を予定していた今泉重子には言いようのない衝撃だったに違いない。

今泉は、「白鳥」入会以来まったく欠詠がない。しかしたった一号、鈴木の死の月だけは今泉の名がない。翌月からは、また以前のように鈴木への思いを歌い続けていた。

鈴木正博の遺歌集になった『海山の羇旅』は、私が主に編集したのだが、「人」や「白鳥」のバックナンバーから彼の作品を集め、書き写してくれたのは今泉であった。全ての作品を写し終えて私に手渡してくれたのは、いつだっただろうか。

私は、それを受けとった時、その明るい表情に、これで乗り超えたのだという確信のようなものを受けとった。死から半年、あるふんぎりをつけたのだと信じて疑わなかった。そのことを妻に語った覚えがあるから、確かなことだ。それほどに穏やかで落ち着いた彼女であった。「後は一ノ関さんにお願いします」――その言葉は歌集刊行への手順のことだと思っていたのだが、それは全く違っていたのだ。

3月20日のこの欄で紹介したように、鈴木正博の死からちょうど半年後、今泉重子は自宅の風呂場に頸動脈を断って自裁した。

多くは言うまい。ただ、まるで現代の『死者の書』のようではないかと私は思った。そして、鈴木の今日のこの一首である。この歌は、今泉を知る以前の作であるが、今から読むとあたかも彼女の死の痛ましさを鎮めようとしているように読める。「わが思ふひとりのために」どうぞ桜の花よ、やすらかに鎮まってくれ。

今泉は、鈴木の突然に断ち切られた命と魂を鎮めようと跡を追った。その今泉の死をこの歌は鎮めようとしている。勿論、これはこの世に残された私の倒錯した願望かもしれない。おそらくそうだろう。しかし、短歌とはふしぎなおもいを誘うことがある。私は、この歌を花の夜にみずから命を断った一人の若き女性への鎮魂の歌だと信じている。

あれから19年になる。金木犀の香りを忘れられない。