前田康子


おしまい。と夕ぐれが云う窓が云うアイロン台の脚を折るとき

中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』(2014)

 

「アイロン台の脚」はいつも使って触れているのに、このように歌にすることをおもいつかなかった。四つの脚が折りたためるようになっていて、その仕組みは母が使っていたアイロン台からさほど変わっていないように思う。アイロンをかけ終わった時にコンパクトにたたみ、仕舞うためにそのようにするのだ。夕暮れ、家族の衣類のアイロンをかけ終わった。その時小さな家事だけれど、ひとつの作業が終わったことに自分の中で少し安心する。「おしまい」と夕ぐれや、窓が言うというのは、自分の代わりに何かが合図してくれているようにとれる。外に仕事にいけば終わりのチャイムのなるところもあるだろうし、同僚に「お疲れ様」と言って着替えなどをして会社から外に出る。スイッチの切り替えがどこかにあるが、家にいて一人で家事をしていると際限なくその時間が流れている。アイロン台の細い脚を折るとき、そんな確かな何かがほしいような気持ちが作者にあったのではないだろうか。

 

おさな子は遠く駈けゆくわれのみが長き産後を生きているなり

 

「長き産後」というのは産んですぐの時間だけなく、生まれて大きくなっていく子供の時間すべてを言っているのだろう。母親にとってはそれは「長き産後」だ。しかし子供は母親の身体から生まれてきたことをそれほど意識していない。それすら忘れてもっと手の届かないところへどんどんと行こうとする。「われのみが」に置いていかれるような寂しさがある。

 

朝も穴、夜も穴なる玄関の覗き窓より家は漏れ出す

家の鍵失くせば家を失くしたと同じことかな二丁目に雪

栓抜けば湯よりもわれの流れてしまいそうなる夜のひろごり

 

平穏に生活していてもどこかいつも人間にはある心もとなさ。そんな印象をこの作者の歌に感じる。一首目はドアについている覗き穴を詠んでいる。ずっとそこにあいている小さな窓から何かが漏れ出していくと作者は表現する。「朝も穴なる夜も穴なる」が当たり前のことをいいつつも面白い。普通に暮らしつつも知らない間に何かが失われていく危うさがある。

二首目も家の歌。うっかり鍵を失くしてしまったのだろうか。それは家をまるごと失ったことと同じだという。悲愴感というよりあっけらかんとした寂しさがある。三首目は一首目の穴の歌に似ている。入浴したあと栓を外して湯を抜く、その勢いよく流れ出る湯を見ていると自分の方が流れ出てしまいそうな気持ちになる。一日の疲れや、気持ちの澱がたまった自分が形を失くして湯のように流れ出てしまいそうな感じがとてもよくわかる。

 

ま春とは言わない春のたけなわのお昼寝 練乳色の雲ゆく

 

「真夏」「真冬」とはいうが「ま春」とは言わない。なるほど。「練乳色の雲」もきいている。