前田康子


七十にして砰(ずり)といふ文字を知りランドセル背負ふごとき嬉しさ

高野公彦『流木』(2014)

 

歌を作る喜びと同時に、高野公彦の歌集には新しい言葉に出会い使う喜びがいつもある。この一首も「(ずり)」という言葉を知ったことが詠まれていて、(私ももちろんしらなかったのだが)「(ずり)」というのは「鉱石採掘・土木工事などで掘り出された岩石・土石、または低品位の鉱石。廃石」と『広辞苑』にある。作者はどういう場面でこの言葉を知ったのだろう。新聞などの文章のなかでだろうか。小説の一文にもでてきそうだ。もしくは博物館などの説明書きに書かれてあったかもしれない。インターネットなど、すぐに開いて調べることができるのに、日常では知らない言葉があっても通り過ぎてしまうことが多くある。じっくり調べて、それをさらに作品のなかに取り込むと新しい言葉はだんだんと自分のものとなってくる。このような専門的な用語や新しい外来語、古典のなかの言葉。どんどん使えば歌の世界も楽しく広がっていくだろう。この歌の下句の喜び方が気持ちいい。初めて鉛筆を持ち言葉を何度も何度も書いた喜びと同じような気持ちを「七十にして」味わっているのだ。

 

歌といふ小さなトンボ追ひかけて六十九となりにけるかな

 

「歌」というものは自分にとって何か、考えるときがある。私には歌は「海」だ。広い海の真ん中に小さな舟でここから自由にどこへでも行きなさいと、おろされたようなイメージがある。広すぎて深すぎて難破しそうだけれど、美しくたくましい海。

この歌ではトンボが「歌」で、それを捕まえようとしている少年の高野公彦が見えて来る。捕まえながらどんどんと場所を移動しながら、あっという間に時間が経った。はるかな時間を夢中になって歌をつくって過ごしてきた気持ちが伝わってくる。

 

広辞苑に「花眼」の無きは蛸壺に蛸の居らざるごとき寂しさ

 

「花眼」は中国語で老眼という意味らしい。書名などにもなっている言葉で、とても深い意味があるようだ。下句の蛸壺との取り合わせが面白い。

 

知らぬ者同士しづかに眠る墓地 蝉の百年の声々(しま)

わが墓にしづかに白き日が射すを惑星〈黄泉〉に来て遠望す

雲照らふ明治公園 高野氏が生前昼寝せしベンチあり

 

生とは何か、死とは何かを常に作者は詠い続けてきた。一首目は上の句にはっとさせられる。考えてみれば墓地には見知らぬ者同士が隣り合って眠っているのだ。そして人間の生死に関係なく古い時代からその場所に蝉は鳴き続けていた。また二、三首目のように自分の死後を見えるように詠う歌もある。自分が死後に入っている墓が照らされているのを〈黄泉〉という惑星までいって遠くから眺めている。〈黄泉〉は死後の世界だから、歌の中の我もまた死んでしまっているのだ。それでも「惑星」という言葉がSF的な面白さを少し出している。

また三首目には「生前」という言葉がさりげなく使われている。これも自分の未来の死へ自分で先回りして、それもちょっととぼけた感じで詠まれている。何かとても哀しい一首だ。自分の死を自分では絶対に見ることはできない。できるのはこのような文芸の世界などにおいてだろう。「ベンチ」の歌を読むといつも何も思わず使っているものや場所が、自分の死後にはどのように見えるのか考えて、「死」というものに少し触れているような気がしてくる。