一ノ関忠人


かへらじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞとどめむ

楠木正行『太平記』(1368~75)

 

私が小さい頃、父は失業して家にいた。代わりに母が働いていた。アドバルーンを貼り合わせる作業、昆布屋さんの売り子……色々な職種に携わったと母。妹はまだ生まれていない。私は母が働いているあいだ父の子守唄にあやされていた。

その父が歌ったのが、楠公の桜井の別れを主題とした「青葉茂れる桜井の」(落合直文作詞、奥山朝恭作曲)であり、小楠公の最後の戦が舞台の「四条畷」(大和田建樹作詞、小山作之助作曲)であった。「青葉茂れる桜井の/里のわたりの夕まぐれ……」、「吉野を出でて、うち向う、飯盛山の松風に……」父の子守歌は、ほぼこの二曲に限られていたらしい。そのせいだろう、これらの歌のメロディと歌詞の断片は、あやふやながらも記憶に残り、歌詞さえあれば歌うことができる。正式にはどちらも長い曲(「青葉茂れる」は6番、「四条畷」は8番)、父は全曲通して歌っていたらしいが、正確だったかどうか。私の記憶も歌詞が前後していたり、また気づくと同じ箇所を歌っていたり、いいかげんなものだ。しかし、これらの歌の哀調は私の精神形成の上には、大きな影響をもたらしたようだ。

現在、楠公、小楠公と言って通じる人は、かなりの年輩に限られるだろう。戦前、戦中に幼少時代を過ごした75歳以上くらいだろうか。私は戦後10年以上たってからの生まれだが、父の子守唄のおかげで楠木正成、正行父子の事跡をいつのまにか知るようになっていた。

楠木正成(まさしげ)は南北朝時代、南朝側のヒーローである。後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐計画に参加。河内の赤坂城や千早城を拠点に山岳ゲリラを展開、幕府方の大軍を混乱させた。後に建武政権を離反した足利尊氏と神戸の湊川に戦い自刃する。江戸時代に水戸学による忠臣としての顕彰の後、敗戦までは天皇の為に命を尽した悲劇の英雄であった。

敗戦の確実な湊川の戦いに出陣するに際して、桜井の駅において子の正行(まさつら)に別れを告げる。その際のドラマが落合直文によって「青葉茂れる桜井の」の唱歌に歌われた。正行はその時11歳、ここで別れるがおまえは故郷に帰れ。それは自分が討死すれば世は尊氏のものになる。だから故郷で力をたくわえ、早く成長して南朝方の天皇のために働け。

それから10余年、正行23歳。父正成の遺言のままにたくましい青年武将に成長していた。少数ながら南朝方の軍勢に加担して、足利勢へ手痛い損害を与え、やがて弟正言(まさとき)らと吉野の皇居へ参内、後村上天皇への奏聞がかなう。

正行は「今度師直・師奏が頭(こうべ)を取り候ふか、正行・正言が頸を彼等が刃に亡ぼされ候ふか、その二つの中に戦ひの雌雄を決すべきにて候へば、今生にて今一度君の恩顔を拝し奉らんため、これまで参内仕り候ふ」と不覚の涙を流しながら申し上げた。すると天皇は、「朕汝を以て股肱の臣とす。慎んで命を全うすべし」と言ったという。

その後、吉野の如意輪寺内にある後醍醐天皇塔尾陵を拝し、「今度の軍(いくさ)難儀ならば、一人も生きて帰り参らじ」と誓って出撃していった。

以上『太平記』の記述である。その時、如意輪堂の壁に出陣する各兵士が名字を書き、過去帳に名を記入、その奥に正行が辞世として書き残したのが、今日のこの一首であった。

生きては還るまいとかねて覚悟の出陣である。梓の弓にかけて帰ることなき死にゆく者の名を書きとどめ置く。梓弓は、本来は「帰る」の枕詞だが、ここでは戦闘の象徴でもあり、また呪具でもあったことを考慮しておくべきだろう。死を覚悟しての辞世ながら優美な感覚がないだろうか。そうして「吉野を出でて」、出陣していった。

「あなものものし八万騎/大将師直いづくにか……」(「四条畷」2番)、敵将高師直の本陣に迫るほどによく戦いはしたが、衆寡敵せず、「正行は左右の膝口三所、右の頬先、左の目尻、篦深(のぶか=矢が深く刺さる)に射られて、その矢、冬野の霜に臥したるがごとく折懸けたれば」、「今はこれまでぞ、敵の手にかかるなとて」(『太平記』)、弟の正言と刺し違えた。

これが『太平記』に語る楠木正行の行動の軌跡である。

 

以前、伴林光平の『南山踏雲録』の一首を紹介する時に述べたことが、私が高校一年生の夏、初の一人旅で目指したのは天誅組の事跡を追うことだったが、それは同時に楠木正成、正行父子の行跡をたどるものでもあった。河内長野の観心寺に正成の首塚を拝し、赤坂、千早城を訪ね、大和へ入り吉野の南朝遺跡を巡る。観心寺の首塚は、天誅組蹶起の場でもあったのだ。今から思えば、ずいぶん偏った高校生であったことかとあきれるような気もするが、それなりに真面目な気持ちだったことを覚えている。父の子守唄教育、子どもを抱いて耳に吹き込む、まさに感染教育が成功したのかもしれないと思うと忸怩たるものがあるが、その後、信ずるにためには深く広くものを考えるという姿勢が身に着くようになったことから考えれば、そのきっかけを作ってくれたのだと思うことにしている。

吉野の如意輪寺の正行がこの一首を鏃に書き刻んだと伝える扉も、その時に見たが、稀薄な印象のみである。それよりも山上の吉野の町が、蔵王堂の大きさには驚かされたが意外なほどに狭く細長く続き鄙びていたことに驚いていた。『太平記』の表現の印象と現実との違いに、ここに南朝方の軍勢が集ったというイメージがなかなかうまく作れなかった。とはいえ奥深く熊野へと続く山稜や土地の険しさに得心し、愛する風景の一つになった。