前田康子


携はる放送の仕事の一つにて毒蛾育てゐる室に入りゆく

松田さえこ『さるびあ街』(1957)

 

最近出版された、尾崎左永子の評論集『佐太郎秀歌私見』を読んだ。十代の頃から佐藤佐太郎門下として育ち、歌の基本を叩き込まれた尾崎の体験をもとに、佐太郎の肉声が今にも聞こえてきそうな一冊であった。今の時代、結社などに誰でもたやすく入れるし、若くて意欲があれば大切にしてもらえる。しかし尾崎の若い時代は社会全体も今とはまったく違っていたし、師弟関係にも結社内にも想像を超えるきびしいものがあったようだ。焼けつくような当時の記憶を掘り起こして書かれたからこそ、文章も熱く、尾崎の渾身の想いがあちこちにこめられている。佐太郎の歌は現代に読んでも古めかしさがない。また、その歌の良さを説明するのがとても難しいと思う。言い換えればすぐに良さが解き明かせない独自の技術のある歌で、だから面白く私は憧れている。

 

さて、冒頭の一首は、尾崎左永子の第一歌集である。初期の筆名「松田さえこ」で出されている。放送作家としての仕事を始めたころの歌であり、「放送作家」ときくととてもスマートな仕事のように感じるが、この歌では取材か何かのために「毒蛾育てゐる室」に通っているようだ。昭和31年頃の歌で、男性と対等に仕事をこなしていく女性のちょっとした影を、一首に感じる

 

黴のごとき花と思ひてかすかなる三つ葉の花を折ることもなし

美女柳に来し蝶ひとつ黄の蘂にからだ(うづ)めて蜜を吸ふさま

 

また歌集の前半部分の歌ではこのような歌が印象に残った。一首目は三つ葉の白い花を詠んでいる。ちらちらとした地味な花であるが、それを「黴のごとき」と表現している。「折ることもなし」となにかうとましく冷めた心のような気分が全体に感じられる。また二首目は、美女柳にとまった蝶を観察して詠まれた歌。「黄の蘂にからだ(うづ)めて」というところに、生き生きと蝶と花の姿が描かれている。美女柳の蘂がふさふさと大きく花から突き出ている。そこへ蝶は体ごと入りりこんで蜜を吸っている。生き物のいたいけな感じが漂う一首だ。

 

悲しみをもちて夕餉に加はれば心孤りに白き独活(うど)食む

うつつなく電車にをれば軸もちて回るごとくに街曲りゆく

 

結婚生活の破綻という出来事がこの歌集にはあるが、それをめぐってドラマめいた歌や構成をされているわけではない。作者は苦渋のなか自身の深淵を覗きこみ、外界を凝視している。一首目は一人だけ悲しみの感情をもったまま人々と食事をしている場面だ。「白き独活(うど)食む」という表現に注目する。「白」という色がきいていて冷たい空々しいものを加えている。また「独活(うど)」という文字も「独」という字があり寂しさを感じる。また二首目は比喩が思い切っていて面白い。佐太郎にもさまざまな電車の歌があるが、それに似てどっしりとした、どちらかといえば男性的な捉え方をこの一首に思う。初句の「うつつなく」の辺りには「独活」の歌のような、作者の孤独な苦渋の世界が見える。