蛇臭き雨空なれど君は言はず蒸暑く光る泥道急ぐ

河野裕子 『家』(2000年)

 私は、いくつかの河野裕子の歌集のタイトルがあまり好きではない。『体力』も『家』も何か直接的すぎる感じがして、一度こらえてからでないと本を開くことができない。けれども、歌集をめくってみると、そういう解り易さとは異質な感じ方をこの歌人が多分に保持していて、そこから彼女の歌が出て来ているのだということが、よくわかる。タイトルのわかりやすさと本人の感覚の論理のわかりにくさとは、同じものではない。

掲出歌の「蛇くさい」というのは、急な雨降りや、雷が鳴りだしそうな大気の気配や土の匂いを言ったものであろう。しかし、この歌の「光る泥」という言葉には、葛原妙子の著名な歌に言うところの「原不安」を素手で捕まえている気配があり、表現者の一回きりの感性のほとばしりがある。前後をさぐってみる。

 

金いろの蛇らが立ちて泳ぎ来るを眼のふち痒くなるまで見をり

 

一つ前の章にある歌。これは、何かの実景だろうか。この歌について、私は事情に詳しい人の説明など聞きたくはない。「金いろの蛇ら」を夕べの光線、または虹の比喩的表現としよう。または現実の春の山辺の蛇の営みとしよう。あるいは水族館のなかの海蛇の姿としよう。または体力の減衰している時に人が目の縁に見る光の帯のようなものだとしよう。どのように現実的に解釈したとしても、この歌の「金いろの蛇」は、薄気味の悪い〈おぞましいもの〉の気配を保持している。ただし、これを現実の本人が病で亡くなってしまったから「死」であるというのは、あまりにも絵解きにすぎる。

河野裕子は、生のさまざまな局面における〈おぞましいもの〉のあらわれを見逃さなかった。時にそれは鋭すぎたのかもしれなかったが、私はそれが河野裕子の「女歌」ということの意味でもあると、いまここでは捉えなおしてみたいと思う。この、何かが〈現前〉する感じを歌によって捉え得た、ということに、世俗的ではないところでの彼女の歌の価値がある。けれども、作者は掲出歌と同じ一連に次のような歌を置いて、読者に助け舟を出したりもしているのである。

 

するすると七月のひかり蛇のやうまつすぐ立ちてその中歩む

 

これを読めば読者は安心するのである。このあたりは、プロの歌人としての読者に対する親切のようなものである。しかし、このすぐあとに次のような歌が続くのだ。

 

尖塔のやうに聳えゐし昔の死 人は何年もかかりて死にき

後ろから君の耳ばかり見て歩くゐないのに大きな蛍の匂ひ

生乾きの髪を垂らして歩みつつ耳もまつ黒い蛍と気づく

のうみつにびめうに不意に椎の花 あなたはそんな(ふう)だつたよ

 

これは、決してわかりやすい歌ではない。ここでも「匂い」が問題になっている。蛍は、ずばりエロス的なものの立ちのぼる気配のことを言っているのであると私は思う。しかし、この「まつ黒い蛍」には、同時にありありと死の気配が感じられる。前後の歌を読みつつ直観的に言うならば、滅んだ〈若さ〉のイメージが悲劇的に固着した何か、それが「蛍の匂ひ」である。もっと踏み込んで言うならば、「蛍」は、死んだ人の魂魄と、それに固着する私の失われた思いとが、ともに形象化されたものではないかと私は思う。

私の解釈の線を押し進めていくならば、もしもこれが現実の夫の若い頃のことの追憶であったとしても、その「若い夫」は、今日ただいまの時間のなかでは、「まつ黒い蛍」=〈死者〉なのである。だから、これは通常の家族の物語に回収できるような思念ではない。すれすれのところで書かれた詩的な言語なのである。詩的言語とは、もともとそのような不安定な危うい場所で展開されるものであるからこそ、きらめく性質のものなのだ。

『家』という、いかにも確固とした枠組みをタイトルとしながら、河野裕子が見つめていた深い沼のようなもの、それは己の精神の底を掘り下げるなかであらわれて来た、そこで素裸で対面・当面せざるを得なかったイメージ、存在の〈おぞましさ〉そのもののイメージだと言えるかもしれない。私が興味があるのは、そのような河野裕子の歌である。

(注)〈おぞましさ〉の意味については、ジュリア・クリステヴァの著書に拠ったが、私なりの転用であるので、あまり厳密に考えていただかなくともよい。また、この歌集には、俳人の永田更衣や哲学者の西田幾多郎の名前が出て来る。あるいは河野は、西田幾太郎をかじったことがあるのかもしれない。真横に証言可能な当代の一流の歌人がひかえているから、うかつなことは言えないが、上の一連についてはそういう気配がしないではない。それはそれで、またおもしろい視点ではないかと思う。