さいかち 真


いぢめられいぢめられてもついてくる榎本君がおそろしくなる

武藤雅治 『鶫(つぐみ)』(2014年)

 少年時代を回顧した一連にある歌。氷室冴子の短編連作の中に「いじわる」という小説があったのを今思い出したが、少年の一時期の「いじめ」て「いじめ」られる人間関係には、合理的には説明できない、やむにやまれぬ性格のものがある。少年が無我夢中でやっている情念の発露の中には、嘘はないのである。私は別にここで「いじめ」を肯定しているわけではない。この歌の「いぢめ」(旧仮名表記)は、複数で一人を孤立させていたぶる陰惨な性質のものではなくて、二人の人間関係の情緒的な基盤が一応成立していて、友人関係もある、その中での「いじめ」て「いじめ」られる人間関係なのであって、そこは区別して読む必要がある。こういうことを言うと、あなたはわかっていない、と言われそうだが、私は自分の子供がいじめられて学校に行かれなくなったりしたから、「いじめ」の大変さは身にしみてわかっているつもりだ。

むろんその二人の心性は、やりすぎれば限りなくデートDVなどに類似したものになっていく危険があるわけで、取り扱うことがむずかしいのだけれども、心理的に押したり押されたりしながら葛藤を経て人間は育っていくものなのであり、一概にすべてを否定していいものではない。ひりひりとした少年時の記憶をうたっている作者は、もちろん痛みをもって過去の事を反省しているのだ。そうして懐かしんでもいるのだ。世の中にはすべてを建前の言葉で塗りつぶしてしまう人がいるが、短歌はそういうものではない。

この歌集を読んでいると、ギャンブルをしながら同時に俗塵をすすごうとする至純な願いを持つという矛盾をまるごと生きている、不思議に仙人めいた作者の風貌が浮かんで来る。こちらはビールとお茶を卓の上に置いて、見ては他の事をし、また見ては他のことをしながら一日過ごすうちに、やがてこの歌集の底に流れるかなしみに触れた気がしたのであった。

 

こんなにもあるじの顔に似るものかトイプードルのモコちやんの顔

バンザイのやうにつぎつぎ黒き手が無数にあがる海の沈黙(しじま)

そこにあるグラスにそつと酒をつぐ菱川善夫と呑むための夜

風花はてのひらにとけ 消えてゆく亡母(はは)の記憶のなかのわたしよ

勝ち負けの勝負が好きで人生は大いに棒にふるまでのこと

よく笑ひよく泣くことのなきわれにただあをあをと青空がある