花崗岩の花ひらく巓をとりかこみ五峰・天女・勢至・無涯峰とうちよせる天上の奏楽

逗子八郎『山岳歌集 雲烟』(昭和16年7月刊)

 ※「巓」に「いただき」とルビ。

 

金剛山に登った時の一連に含まれている歌。険しく尖った神々しい山の連なりを天上の奏楽にたとえている。アルピニストにとっては聖地のような天仙台にのぼりつめて、感動に胸をふるわせている。

 

挨拶が済むや 畳の上に拡げられる営林区署登山地図 いつも新鮮な花のように

 

この歌は、「松本まで」の一連にあり、山仲間の友人の家に着いて一息ついてから、さっそく北アルプス登山の計画を練りはじめる情景を詠んだものである。新短歌だから読み方が普通の短歌とはちがうが、一字空きがあって字数の多いわりには読みやすい。地図を「いつも新鮮な花のよう」と言ったところに山好きの気持が強く出ている。この歌集には「花のように」という言葉が何度も出て来る。「巻末小記」を見ると、次のようにある。

 

「中学三年(旧制)の頃から長い間ひたすら打ち込んでいた定型短歌を離れて、新短歌運動に挺身するに至ったのは、昭和二年秋、ちょうど大学を出る前年の事であった。爾来約十五年の間に、詠みためた新短歌の作品は約二千五百首程あるが、そのうち、山に関するものが千二百首程になる。その中から六百八十五首を選出したものが本書である。登った山の三分の一位は網羅してあると思う。」 (※引用にあたり仮名遣いを新仮名、活字を新活字に改めた。以下同じ。)

作者はこの後、戦時中は情報局の官吏として歴史の汚泥にまみれてゆくのだが、この「山岳歌集」に示されている生き生きとしたアルピニスト青年の思いは、振り返るに値する。

目次の順に山の名前だけをあげると、新高山・海南島南山嶺、信濃の山々(穂高岳、燕岳、槍ヶ岳、白馬岳、剣岳)、朝鮮の山・北海道歌抄(金剛山)、浴泉抄、奥多摩・奥武蔵(御嶽山、伊豆ヶ岳)、奥秩父・大菩薩峠・乾徳山(両神山、甲武信岳、武甲山)と、本格的な山のほとんどにアタックしていることがわかる。例の剣岳には初秋に登っているが、本当に命がけだったことがわかる。「アイゼンとは名のみ」と詞書がある。

 

急勾配の氷河と直立する岩峰のつくる眩暈感 平衡をしづかにピツケルで支へる

※「眩暈」に「げんうん」、「平衡」に「バランス」とルビあり。

 

しかし、歌集巻頭の章題は「新高山・海南島南山嶺」である。山岳歌集とは言いながら、真珠湾攻撃まで半年もない時期に刊行された書物であり、結果的に著者の輝かしい青春の記録としては、巻頭から戦争の影を負ったものになってしまっているところが痛ましい。

海南島に日本軍が奇襲上陸したのは、同年二月十日だから、これは平和な性格の登山ではない。ずいぶんときな臭いのである。偶然の暗合ながら、冒頭の一連のタイトルは「新高山」で、どうしても真珠湾攻撃の「ニイタカヤマノボレ」を思い出してしまう。詞書には次のようにある。

「昭和十四年六月、百日の南支海南島従軍を終え、帰途台湾に立寄り、新高登高を思い立つ。先ず安里山を越え、鹿林山高原に至る。標高八千尺、而も心を和まし(ママ)ること限りなし。」

つづく「南山嶺登攀」の一連の詞書には次のようにある。

「海南島の南、崖県に秩父武甲山に似たる南山嶺あり。標高六百米を僅か超えしばかりなるも、全山亜熱帯のジャングルに蔽われ、毒蛇毒虫横行する上に敗残兵の遁入せるあり。余、昭和十四年四月崖市海軍K部隊本部に滞在中、邦人としてこの山の初登攀を決行す。」

警護のため陸戦隊の兵士九名を率いて本人も拳銃を携行し、軍装で登っている。こうなると、登山も軍事的な行動に等しくなる。

 

青天に梯して 一岩さらに一岩 蠍座より高く わが靴は鈎つた

※「梯」に「はしご」、「蠍」に「さそり」、「鈎」に「かか」とルビ。

 

この歌は、「穂高岳」の一連にある。気持に弾みがあり、一句一句、足が進むにつれて感情がたかぶって来る様子が、そのまま歌の調べとなっている。『雲烟』の全部が、こんな歌で占められていれば良かったのだが、時代の空気は、巻頭に「新高山・海南島南山嶺」を持って来ることを要求していたのである。「巻末小記」を仔細にみると、まだ気がつくことがあるのだが、それはまた別の機会にしたい。