寺山修司『空には本』(1958年)
欅はニレ科の落葉高木。
山野にも自生するし、並木や公園木としてもよくみられる。
扇をなかばひらいたような樹形はうつくしく、芽吹きのとき、新緑から盛夏の茂り、黄葉、そして裸木の樹影と四季それぞれの風情をみせてくれる。
ケヤキのケヤはケヤケシ、つまり際立っているという意味。
木理(きめ)のことか、と辞書には注記があるが、やはり樹形のことではないか。
ふるくは槻(ツキ)と呼んだ。
最近、酔っぱらって大声をあげているひとをあまり見ないが、子供のころはよくみかけた。
主人公が酔って詠ったのは、演歌かフォークソングか、或いは労働歌か。
昂揚した意識の片隅で見かけた、冬の欅の堂堂と両手をひろげたような樹形を、翌朝の宿酔のなかでうらめしく思う。
あらためて、自分の卑小さを思うのだ。
そして卑小さを思うのは、大きすぎる自負の裏返しでもある。
葉をおとした冬の木が勝利のようだ、というのは皮肉だが、空にそびえる裸木は、高層建築が建ちはじめた都市の象徴でもあっただろう。
勝ちながら冬のマラソン一人ゆく町の真上の日曇りおり
同じ歌集の一首。
結句は字足らずだが、日、曇りおり、と日のあとに一拍おくと定型に収まるし、主人公の息づかいが聞こえてくるようだ。
勝ち組、負け組、という言葉は最近のものだが、昭和30年代のこの歌集にも、勝ち負けに関わる歌がいくつもみられる。
負けるが勝ち、という言葉もあるように、勝ち負けという人生の捉え方はいずれにしても単純だが、当時の勝ちは、いまの勝ち組にくらべてより突出したイメージをもっていたようにみえる。
「あしたのジョー」とか「巨人の星」に通じるような勝ち。
それはたんに社会的な成功を意味するのではなく、自分だけの、あるいは自分たちだけの物語の主人公になることを意味した。
そしてそれらの物語には、敗戦という体験が、屈折した影を落としてもいたはずだ。