大塚寅彦『空とぶ女友達』(1989年)
まず、モニターにふだんの姿をうつされるものとして監視カメラを想像した。けれど、監視カメラにむかって「微笑」むひとはなかなかいない。
となると、これは家庭用のヴィデオレコーダーなのかもしれない。
すると、モニター画面で「きみ」を見ている〈われ〉はどこにいるのだろう。
いろんな場面をかんがえて、どれもありそうでないような、心もとない気分になる。
「走査線」は、IT用語辞典でしらべてみると、「テレビやディスプレイの画面の水平方向の線のこと」。つまり、「テレビやディスプレイの画面では、画素という小さい画面の単位に分割することができ」、その「画素の横1行分の軌跡のこと」を走査線というらしい。
そうか。だから「みえない走査線」なのだ。
ほんとうは誰もが見ているけれど、誰にも見えない。
なんとも不気味な感じがしてくる。
ここでは、「みえない走査線」を、〈われ〉は見えている、いや感じているのだ。
ということは、「みえない走査線に割かれて」という表現は、〈われ〉の心象のあらわれである。
映像に映る「きみ」の「微笑」は屈託なく美しい。「きみ」をとりまく周囲の空気もおそらく明るい。
しかしモニターをみている〈われ〉の眼には、その「微笑」が「割かれて」、屈託のない「微笑」がにわかに不安に充ちたあやういものに変換されているのだ。
「きみ」と〈われ〉の間に画面という境界が不気味に居坐っている。
あちら側とこちら側。
空気や感情、なにもかもがデジタルに置き換えられ、異質なものになる。
すべてが、みごとにと言っていいほどあやふやで宙に浮いている。
「きみ」と〈われ〉の関係さえ説明がつかない。
しかし、それにもかかわらず、この歌には一条の光のような圧倒的な愛をかんじてしまう。
これはなんなのだろう。