さやうならとは永久(とは)に人語よわれは人間(ひと)青天に愁ひなきこゑをききとむ

河野愛子『光ある中に』(1989年)

さようなら、は、左様なら、つまり、それならば、の意味。
それじゃあ、お別れしましょう。それじゃあ、またお会いしましょう。
いずれにしても、今は別れなくてはならない仕方なさの確認のような気持ちが、もともとはその言葉にこめられていた。

さやうならとは永久に人語よ、という一首の上句からは、塚本邦雄の『感幻楽』のつぎの一首を思い出すひとも多いだろう。
   固きカラーに擦れし咽頭輪のくれなゐのさらばとは永久(とは)に男のことば
本歌取りといえなくもないし、作者の念頭には、塚本の一首もおそらくあったのではないかと思われるが、詠われていることはずいぶんちがう。

ひとは老いや別れを、秋や冬の自然の景物にたくして詠うことがある。
四季のうつろいと、ひとに流れる時間の決定的なちがいは、四季はくりかえし、ひとの人生はいちどかぎりでくりかえしがない、ということだ。
そしてそのちがいこそが、ひとのこころを四季の景物にたくして詠うとき一首にやどる、せつないひかりの源でもあるように思う。
めぐりつづける季節にはない、終(つい)の別れ、というものが人にはある。
一首の上句には、そんな思いがこめられている。

連作には、
   梨の木に花の莟(つぼみ)の満つるなり花よりも華やぐ空とおもはむ
という歌があるので「愁ひなきこゑ」というのは、裸木になってもまた春をむかえて莟をふくらませる、梨の木の声だとはじめは読んだ。
でも、繰り返し読むと、そんなに単純なことではないことがわかってくる。
われは人間(ひと)、という挿入句にこめられた、人の生のさだめを受けとめる主人公の気概が、ひしひしと伝わってくるのだ。
いちどかぎりだからこそ尊い。別れがおとずれるからこそ大切なのだ。
愁いのない声とは、そのことを言い聞かせる誰かの澄んだ声。
おそらくは、主人公自身の声であるにちがいない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です