魚村 晋太郎


鬼の面はづしてみればあはあはとひかりあひつつうみに咲くはな

永井陽子『なよたけ拾遺』(1978年)

例えば、少し古い時代に、湖の近くの村で行われた、村ぐるみの鬼やらいの景色などを思い浮かべる。
そうでなければ、何か土俗的な祭か、芸能の場面を背景に置いて読んでみたい。

鬼とは追われるものの運命の象徴である。
災厄として家や共同体を追われるもの、或いは漂泊民や先住民。主人公は鬼の面をつけ、鬼を演じることで、しばしそうした人人の運命にこころをそわせる。
美しい風土の恩寵に、もっともこころをふるわせるのは、そこに定住する者ではなく、そこを漂う者、或いはそこを追われる者ではないか、と。

また別の読み方もある。
同じ歌集には「朝霧のしづくの野辺に残されて人間くさし鬼の親指」という一首がある。
鬼の親指が人間くさい、というのは、すべての人間のなかに鬼的なものが潜んでいる、ということの裏返しでもある。
鬼とは人間性の底にひそむ悪の象徴である、と読むこともできる。
自らのうちにひそむ悪を自覚するとき、目の前の景色はいっそう清浄なものとして主人公の前に立ち現れた、と。

古典で、はな、といへば桜をさす。鬼やらい、つまり節分の時期にこだわれば、菜の花ということも考えられるが、「あはあは」とひかるのだから、やはり花は桜だろうか。
海でなく湖、と思う。遠景に咲いている花が水面ととけあふような淡いひかりを湛えている春の一日。
下句にむかってあかるくほどけてゆくような、韻律の音楽性もこの一首の生命である。