ほの暗き腋は植物にもありて葉腋に咲く金木犀の香

梅内美華子『真珠層』

(2016年、短歌研究社)

 

キンモクセイの花が葉腋とよばれる部分につくということを意識していませんでした。そういわれれば、そうです。

ところで〈腋〉の一語というか一字になにか、なまなましさを感じるのは、なぜでしょう。

〈植物にも〉ということは、その前に出てくるのは植物以外の存在、つまり動物の〈腋〉です。脇と表記してもよいのですが、短歌では腋の字をよく見かけます。「月+夜」のロマンティックともいえる字面が好まれるのでしょうか(「月」の部首名は「つきへん」ではなく「にくづき」、元の字は「肉」ですが)。

すべてがあらわにはならないけれど、なにかが見えそうな、ほの暗い状態。

トリヴィアルな話に思われるかもしれませんが、現在の短歌が口承よりもまず文字列として伝えられる視覚情報であり、そしてこの歌に〈腋〉が二回出てくる以上、無意味な視点ではないはずです。

人間の、とくに女性のわきは、服で隠さなくてもかまわないけれど体毛や体臭について配慮すべきデリケートゾーンとされています。……と書いたところで、わきから花の香りをただよわせる、澁澤龍彦の小説に出てきそうな女性が見えてきました。

手がたい表現とはうらはらに、とても奇妙でエロティックな歌ではありませんか。

でも、作者はおもしろがっているわけではなく、ただ、人生のさまざまな局面に、ほの暗さをどうしても覗きこんでしまうということのようです。

 

獅子頭の口の奥より被災せしこの世見てゐるほの暗き顔