三井修


新しき眼鏡にせんと思いおり苦しみてもの書きたるのちに

千々和久幸『水の駅』(平成23年、短歌新聞社)

 上句と下句は因果関係があるのだろうか。もし、あるとすれば、眼鏡の度が合わなかったから、原稿用紙が見えにくく、或いはパソコンのキーボードやモニターが見えにくく、原稿を書くのに、或いは入力するのに、苦しんだということになる。それは確かに同情出来る。眼鏡というものは、作った時にはベストの状態でも、年月が経つうちに本人の方の近視、或いは遠視が進んでいき、やがて見えにくくなってくる。そうなるとその時の眼の状態にあった眼鏡を作り直さなくてはならない。そうやって眼鏡屋は潰れることなく繁盛していく。

 上句と下句との間に直接的な因果関係がないと仮定すれば、原稿を書く、或いは打つのに苦しんだ理由は、眼鏡のせいではない。難しいテーマを与えられた、判らない歌集の書評を頼まれた、体調が悪いのに締め切りが迫っている、等々の理由で作者は執筆に苦しんでいる。しかし、作者は苦しみながらもようやくそれを書き終えた。苦しんだ理由が眼鏡のせいではないにしても、作者はふと新しい眼鏡を買おうと思った。気分転換のためか、それとも苦しむ程ではないが、最近、眼鏡が合わなくなってきていることを思い出したためか。どちらかと言えばこちらの方が詩になる。

 作者に聞けば、どちらかということは判るだろう。しかし、短歌では、「本当」のことが分かっても仕方がないこともある。提出された作品、それを読者がどう解釈するかは読者に委ねられている。

     時計屋の時計が異なる時指すを何か不幸のごとく見ていつ

     信号を渡れる春の人の背をこころ解(ほど)きて眺めていたり

     空仰ぎ傘を開きてホテルより出張者らが出勤しゆく