ひとりきてひとりたたずむ硝子戸の中の青磁の色のさびしさ

湯川秀樹『深山木[みやまぎ]』

(1971年、私家版)

 

今秋、歌集『深山木』がはじめて文庫化されました(『湯川秀樹歌文集』講談社文芸文庫)。京都大学の退官記念として上梓された歌集で、少年時代の思い出から科学者としての感慨まで473首がおさめられています。

科学者の詩歌といえば寺田寅彦では俳句活動の印象が先立ちますし、科学者にかぎらず、多忙な人は短時間でつくれる(と思われている)俳句をやるものだという言説が、むかしからありました。

ところが湯川博士の随筆には「俳句には『季』という難物がある。始終研究室に引籠っていて、自然の移り変りに細かい注意を払う機会の少ない私などが作る俳句は、季節感の乏しいものになりがちである」とあり、つまり短歌には季語がないから楽ってこと? とやや拍子抜けします。

博士は短歌を趣味の一つであると述べます。でも趣味でないつもりで作歌にいそしむ人とのあいだに隔たりがあるかといえば、動機面においてはそうでもないのではと、「京都博物館にて」と記された一連の歌を読んで思いました。

著名人でも、ひとりのひとときに〈さびしさ〉を呟きたくなるのは同じなのだと。

 

靴音のわが耳にのみかへりくる部屋をいくつか歩みすぎつつ

閑けさはいつの世よりぞいつまでぞ立てる神将すわるみほとけ

 

こうした平明な叙述のあと、「昭和二十三年の春を迎えて」という詞書をそえて

 

深山木の暗きにあれど指す方は遠ほの白しこれやわが道

 

と、敗戦後の空虚感のなかに志がうたわれています。