磨かれて柱時計は帰り来ぬ。なお聴き継がむ、家の鼓動を

高島裕『饕餮の家』(1012年、TOY)

  最近は柱時計のある家は少ないのではないかと思うが、少し前まではどこの家でも柱時計があった。茶の間の柱に掛けられており、定期的に捻子を巻かなければならない。少し狂ったりすると、ラジオの時報に合わせてそれを修正するのは大体が一家の主の仕事だったように思う。住宅事情の悪い時代では子供たちの部屋がある家は少なく、茶の間で家族は食事をし、父親は新聞を読み、母親は裁縫をし、子供たちは宿題をしたりしていた。家族の誰からも柱時計は見えた。家族の生活のリズムは柱時計によって統べられていたといってもいいかも知れない。いわば柱時計は家の象徴であったのだ。

 掲出歌は連作の中の一首であるが、他の作品から推測できる事情は、昭和53年に作者の亡父が柱時計を買ってきた。その時の父は60歳であり、ポマードが匂った。その父が自転車に乗せて持ち帰った時計がついに動かなくなり、修理に出したのだ。修理期間中、作者は習慣で一日の何度も柱時計の掛かっていた処を見上げてしまうという。その時計が修理を終えて戻ってきた。全体の分解修理をしたのだろうか、外観も磨かれて帰ってきたのだ。

 亡父との思い出に満ちたその柱時計の音を作者はこれからも聞き継ごうと言っている。「む」という意志の助動詞が、それが強い決意であることを表している。そして、その柱時計の音は「家の鼓動」だとまで言っている。柱時計は「家」の象徴であり、その音は「家の鼓動」なのだ。「家の鼓動」を聴き継ぐということは、これからも自分の生まれ育ったその家を守っていこうとういう意志に他ならない。

 作者は富山県で生まれ育ち、京都の大学で哲学を学んだ後、上京し、作歌を始めた。しかし平成14年に帰郷し、現在に至るまで個人誌や同人誌に拠って作歌を続けている。帰郷の理由は明らかではないが、強い決意があったのだろう。現代では希薄になった家意識を強く持ち続けている作者なのだろう。因みに、作者の住む富山県の持ち家率は秋田県に次いで全国第二位の由であるが、そのようなことも作者の意識に関係があるのかもしれない。「磨かれて」という表現はもちろん柱時計のことであるが、作者の心とどこかで重なってしまう。どの作品もかすかな陰影と苦渋の影を帯びながら、深い透明感を湛えており、抒情的である。

      地獄とは何なのだろう、これの世の地獄を知りて四十歳(しじふ)となりぬ

      粉雪に煙る雪原(ゆきはら)駆け抜けて行けども行けどもふるさとの中

      うつすらと海彼に泛ぶ立山をたしかめあへり、光降る中