中川宏子『右耳の鳩』
(2011年、砂子屋書房)
書名は耳鳴りを鳩の声にたとえたもので、掲出歌は「突発性難聴」という章のなかにあります。
発症時の不快だけでなく、治るのかどうかという未来への不安にももとづく作歌のはずですが、ふしぎとしずかな思索もともなう印象の一首です。
眼球にとってのまぶたに相当する器官が耳にはないので、健常であっても、聞きたくない音声まで拾ってしまいがちです。脳があるていど情報を選別するとはいいますが、気になる内容であれば意思に反して耳をそばだててしまうのでは。
ところが病のため世界が無音になると、耳は〈健やか〉であると言っています。
聞こえないことが健やかであるというのは、悲しい認識です。世界(ここでの世界とは、作者にとっての“世間”くらいの意味ととります)が汚れたものであり、その汚れを逃れて健康を取りもどしたというふうに読めるからです。
常人であるとは、健康とはどういうことか。病を得ると、たしかにだれでも、相対的に見つめなおすことはあるでしょう。
記憶すべて失ひたれば吾どんな性格ならむ 海に会ひたし
子供らの声の華やぐ見上げればクリスマスツリーひとりきりなり
作者にとっての健康は、つつがなく他人と交流できる社会性をいうのかも。
性格の異なる自分を想像したり、クリスマスツリーに孤独を見たりする歌を読むとそう思えますが、同時に、うたうこと・書くことに人を癒すはたらきがあることも感じられる。そんな効用?のある歌集でもありました。