雑魚寝する頭跨ぎてだれかまた棺の傍に泣きにゆくらし

衡美智子『光の穂先』(平成26年、現代短歌社)

 お通夜での作品である。前後の作品から作者の母のお通夜と思われる。日本の仏教における通夜は、以前は線香や蝋燭を絶やさず、親族が一晩中起きて遺体を守るということが一般的だったが、最近では、この作品のように、親族が一晩中遺体に付き添うが、眠くなれば眠るということも多いようだ。また、夜半までの「半通夜」というものあるようだ。

 掲出歌では、親族が棺の周りに付き添い、眠くなれば適当に横になって眠っているのだが、時々誰かが起き上がって棺の傍へ行って泣いているという。「雑魚寝する頭跨ぎて」という表現が生々しい。棺を囲む輪の外側に寝ていた誰かが棺に近づくために、より棺に近い場所に寝ている人の頭と頭の間の空いている場所を選んで慎重に近づいていくのだ。泣いているのだからかなり近い親族であろう。それも「また」とあるからそんな親族が何人かいるのだ。足音も泣き声も低く抑えており、作者自身も半分眠っているために、「らし」となっているのだろう。

 「雑魚寝」、「跨ぎ」、「泣く」などの言葉に遺族側の生の実感が難じられる。「死」の厳粛さに対して、「生」とはこのように生々しいのだということが感じられる。

     わが死者のいかな秘めごと知る花かうなじを垂れて咲ける白百合

     黒ずめるところ病巣とだれか言う母の形に残るしらほね

     わが住所電話番号書く紙片たたまれてあり亡母の財布に