永田和宏『夏・二〇一〇』(2012年、青磁社)
「時刻表」はJTB等が発行している雑誌型のあれではない。バス停留所のポールに取り付けられている、そのバス停に止まる予定時間を記している表示板のことである。有名な観光地の岬ではない。しかもバス停はその岬の先端にある。鼻」は「端」である。物の端っこや少し出っ張った先端部分が「はな」なのである。地方の、地元の人以外は殆ど利用することのない名もない岬なのだろう。恐らく一日に数便、それもずっと改訂が行われていない。ひょっとしらら、ねじ止め部分が潮風で錆付いており、赤く変色しているのかも知れない。その時刻表の数字が色褪せており、しかも強い西日が当たっていて読み難くなっている。なんとも淋しい光景である。「
「風のバス」が読者の心を鷲摑みにする。風の吹く中を走行してくるバスなのだろうが、バス自体が風のような印象を受ける。それ自体は確かに存在するはずなのだが、見えにくく、掴みにくい。あっという間にどこかに消えて行ってしまうかも知れない。そんな風のようなバスなのだ。しかも時刻表の数字が読めず、いつ来るのかわからない。そもそもいつか来るのかどうかすらあやふやなバスを風の中で待っている作者の心は荒涼としている。
『夏・二〇一〇』は一冊丸々河野裕子の闘病歌と挽歌で埋められているが、その中にこのような初期の永田作品を思わせるような瑞々しい抒情の作品があるとほっとする。しかし、この作品もまたこの歌集の他の作品と無関係ではない。この頃の作者の深い悲しみを投影している一首なのだ。
無人駅となりて久しきホームには破れ目破れ目にをみなへし咲く
日のあるうちに帰りきたれば驚きてどうかしたのと問ふ さうなのか
いつの間にか携帯の電池が切れてゐたそんな感じだ私が死ぬのは