塚本邦雄『波瀾』(花曜社:1989年)
*表記は『塚本邦雄全集 第2巻』(ゆまに書房:1999年)に拠る
*漢字はWebで表示できるように適時新字に変更した(以下同様)
◆ 伊舎堂仁は二度あらわれる (1)
塚本邦雄の第十七歌集『波瀾』の掉尾を飾る一首である。現代短歌における枕詞の使用例や、戦争を詠んだ歌の例として引かれることが多いだろうか。もちろん、本歌取りの歌の例としても。
春の夜の夢斗なる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ 周防内侍(『千載和歌集』 巻第十六 雑歌上 961)*表記は久保田淳・松野陽一 校注『千載和歌集』(笠間書院:1961)に拠る
簡単に訳し下せば、春の夜の夢のように儚く一夜をともにすることで、つまらなく立ってしまう浮名は残念なものです、となるだろう。だからあなたの手枕は受けませんよ、ということが相手に婉曲的に伝えられている。
塚本の歌は、春の夜の夢のようにおぼろげな枕辺に、召集令状が届いているのを見つけて思わず声をあげる場面だ。「あかねさす」という枕詞は「日/昼/照る/君/紫」という語を導くものだが、ここは召集令状が赤い紙であること(=赤紙)と繋がりが強そうだ。「(大)君」という存在や、すでに空が明るいことも暗に意味されているかもしれない。
あなたとは一夜をともにしませんよ、という周防内侍の歌から、覚醒めるといつのまにか赤紙が横にあった(=一緒に寝ていた)という場面への大きな転換は、見事な本歌取りとして唸らされる。「手枕」から「枕頭」という、「枕」をひっくり返す勢いで「手」も「頭」にすり替えたようなさりげない技も効いている。
「あっ」という驚きの声は、続く「あかねさす」という言葉とリズムとよく繫がってさらりと流れていくが、よくよく考えてみると面白い。驚く対象は召集令状であろうから、本来的には「あっ召集令狀」と来るのが自然だと感じる。しかし一旦「あかねさす」と回り道をして「召集令狀」に至る。リズムの上では素直だが、意味の上では素直ではない。この小さな齟齬が、かすかな毒のように残り続ける。
『波瀾』を読み返すと、「春の夜の夢ばかりなる〜」の歌と単語や意味上の繋がりを感じさせる歌が散りばめられていることに気が付く。
一瞬南京虐殺がひらめけれども春夜ががんぼをひねりつぶせり 「松花變」歌をよむは歌を疾むなり旅にして枕頭に冬の榠樝がにほふ 「花鳥百首」虛報凶報ばさりとおいて薔薇色の眞晝郵便車が驅け去んぬ空海忌まだあたらしき手箒のさりとて死の枕頭が掃けるか 「ブニュエルの亂」
終戦から四十年以上経ってもある日突然、赤紙が枕辺に届くかもしれない。それは単なる夢なのか、あるいは遠くない現実なのか――
和歌より引き継がれた本歌取りや枕詞などの技法が練りに練り込まれた、むしろ余裕さえ感じさせる歌の造りがかえって怖く、私はこの歌をときおり思い出しては今の時代はどうだろうと考える。
さて、歌の中で赤紙/召集令状はどう届くのか。世代の異なる歌人の歌を、もう少し見てみたい。
(☞次回、1月13日(金)「伊舎堂仁は二度あらわれる (2)」へと続く)