ひなたより入り来し赤いセーターの少女つかのま陽のにおいせり

三枝浩樹『朝の歌』(昭和50年・反措定叢書)

 

戸外から室内に入ってきた赤いセーターの少女は、今まで何をしていたのだろうか。日溜まりで友達とおしゃべりしていたのか、駅から冬の陽ざしの中を歩いて来たのか。入ってきたとき、室内の暗さに馴れるまで、少女はしばらく立ち止まったに違いない。場面は特定できないが、少女は明るく温かい感じを運んできた。自身が纏うものに気づいていない、無自覚で自然な温もりが、少女に無垢な気配を添わせている。聖性といってもいい。

 

『朝の歌』は三枝浩樹の第一歌集。「〈朝の歌〉覚書」で、「短歌的なるもの、すなわち短歌的感性秩序というものはいまだに根づよく存在するが、ぼくらは短歌によって短歌的なるものを駆逐しなければならない、と思う」といっている。志す作歌上の2点は「即物感と抽象性」といい、だから集中には次のような歌もたくさんある。

 

情念のくもりの内にいる午後を肺腑までぬれしカミュが通る

想念の昏がりへ発つ鳥の眼の芯さむざむと夕焼けている

 

「セーターの少女」と「カミュ」。かけ離れているようでありながら、1970年代の青年が希求した崇高が見えるようだ。このとき三枝がいった「短歌的なるもの、すなわち短歌的感性秩序」が何を指しているのか、40年を経た今、再考したいところである。