等伯の松林図けふ観にゆかむ朝の床とこにきたる雨音

経塚朋子『カミツレを摘め』(2016・ながらみ書房)

 

六曲一双の長谷川等伯の松林図屏風は、「美術史上日本の水墨画を自立させた」といわれているそうである。遠く雪山をのぞみ朝霧にけむる松の林を描く。濃い墨で描かれた4本の松とその周りの墨の濃淡は、屏風の前にたつ者を、あたかも松の林の中に立っているかのような気持ちにさせる。

 

引用の1首は、小題「過る手迷ふ手―長谷川等伯展」5首の第1首目。ふつう、展覧会に行って作歌をこころみると、どこかレポート風になってしまいがちだが、この歌にはまったくそういう気配がない。

 

一読、等伯展にゆく契機が「朝の床にきたる雨音」であるように読める。目覚めたら雨音が聞こえ、松林図が連想され、等伯展に行くことにした、というように。「朝の床に聞きたる」ではなく、「朝の床にきたる」である点にも注目したい。音が床にやってきたという擬人化が、言われなければ気づかないような自然さである。作者が技法として擬人化したのではなく、自身の感覚にそっているからだろう。

 

「朝の床にきたる雨音」と「朝の床に聞きたる雨音」。違いは何かといえば、思考が「われ」を中心にめぐるかどうかである。『カミツレを摘め』は、「われ」中心に感じたり考えたりしない歌集である。雨音が聞こえたら、心を雨音にそわせ、雨音を主人公として世界をつくる。

 

この歌は次に〈等伯の松の林にこの雨はつづくのか 問うて消ゆる雨靴〉〈霧雨か霧かわかたぬ松林図 前を過る手 中を迷ふ手〉と続く。絵を見るというよりは、絵を感じている。他に次のような歌も印象に残る。

 

海の藻のゆらぎに生れて水半球の浅瀬にねむる海牛われは

バス停に足踏みしながら待ちをれば雲が千切れて落ちくるばかり