平井弘『顔をあげる』(不動工房:1961年)
*表記は『現代歌人文庫 20 平井弘歌集』(国文社:1979年)に拠る
(☜1月23日(月)「靴下はなんのために (2)」より続く)
◆ 靴下はなんのために (3)
「少年喪失」と題された、少年期から青年期へと移ろう時期を詠んだ一連より引いた。全体は「少年喪失・1」〜「少年喪失・5」までに章分けられており、掲出歌は「少年喪失・3」の一首となる。ひとつ前の歌を見ると、情景を描きやすいだろうか。
君を少し先にたたせて行く時のわれ山羊を追うような眼をして
「君」も同じく少女期を脱する年頃だと想像する。その後ろを歩きながら相手を山羊のように見ているのだが、どこか一首の視点は宙に浮いていて、自身の「眼」を観察している。山羊を追うというどこか牧歌的な雰囲気に加わる、自身を見る客観性は、やはり少年期のものではなくて青年期のものだろう。「君」への想いは単純ならざるようだ。
山羊を追うように相手の後ろを歩くという圧倒的優位の中にいて、靴下の裏がすこし汚れているという些事をことさらに「君の弱み」として感じとる。そんな自分自身のほうが、ある意味では弱い存在であることには気が付いていない。つまりは、一首前の歌のように自身の「眼」や顔つきといった外観を客観視することはできていても、自分の心理の奥底を客観視するまでには至っていない。この点もまた、青年期に差し掛かった時期に特有のもののように思える。
「少年喪失・5」の章には次の二首が収められている。
黙って先にたたせて行くあゆみ残酷なほど君は育ちき豆科の草が打ち返されている土に君を裸足にしたくてならず
同じ青年期への過渡期でありつつ、「少年喪失・3」からどれだけの月日が経っているのかは分からない。ただ、先にあげた「君を少し先にたたせて〜」と掲出歌の「君の弱みのごとく見ている〜」との対を成す歌のように思える。
君にはもはや「山羊」と見なせるような幼さは残っていない。だからこそ、と言っていいのだろう、かつては見ているだけであった靴下に手をかけて、剥ぎ取ってしまいたいという抗いがたい衝動が生じている。ここにして、少年性は完全に喪失されたと言える。
相手への想いの昂揚が相手の足や靴下への固執として現出していたものが、そこから十年もすると、自分の靴下をわけも分からずに自ら脱ぐようになる。人の成長というのはまことに不可思議なものである。
とは言え、成長の中で靴下は脱ぐばかりのものではないようだ。歌集の中に靴下を探していくと、こんな歌に出会った――
(☞次回、1月27日(金)「靴下はなんのために (4)」へと続く)