林和清『ゆるがゆれ』(1991・書肆季節社)
今年は、例年にない寒気団が豪雪地帯に豪雪を降らしていると、日々のニュースが伝えている。「淡雪」は早春のイメージかもしれないが、雪に埋もれている家々のテレビ画像に、奥深く不穏を秘める雪の静謐が思い出された。
「彼の作品には京都を中心とした膨大な「教養・知識」が埋め込まれている。本歌取り、返歌、典拠ある作品など、いわば新古今時代の歌作り」のようで、「鑑賞する場合、読み手が試される」(小高賢『現代の歌人140』)といわれている。わたしは、そのような歌を読むとき、教養ある人は教養を傾けて、教養のない人もそれなりに味わえばよいと思っている。典拠や本歌を探ることばかりに気をとられていては、あまり楽しくない。この歌は、上句の明るさ軽さと、下句の暗さ重さが対照をなして、シーンとした古都の風情が美しい。京都の地の、目に見える「淡雪」の下に、見えない「ふかきふかき闇」を抱き込んでいるところが魅力的。地霊という言葉がおもわれる。
塚本邦雄に〈聖母像ばかりならべてある美術館の出口につづく火薬庫〉の1首がある。「聖」と「凶」は、対立としてあるのでなく、コインの裏表のように接続し、密接に結びついているということが、鮮明なイメージで描かれる。並べて見ると2首は、上句と下句の幾何学的対照性で通じているが、塚本の歌が「美術館」「火薬庫」という空間概念で発想されているのに対して、掲出の林の歌は、「わが家」という「日常」と、「御所」という歴史的「非日常」の重層的時間から発想されているといえる。趣向は似ているが、空間から時間に移行された「ふかきふかき闇」が現在に及ぶ。
豪雪地帯に今日も降り積もる雪の下には、どのような時間が流れているのか。気づいてみれば、時代はいつも不穏であるのかもしれない。