石川啄木『一握の砂』(東雲堂:1910年)
*表記は新潮文庫『一握の砂・悲しき玩具』(新潮社:1952年)に拠る
*表示の都合上「啄」は点のない字形を用いた
◆ 憎むということ (1)
自分の髭の生え方が、憎い男のそれと似ていることに憤りを感じる。些細なこととは言え、鏡を見るたびにその男のことが思い出されるのだろう。なかなかにこたえるものかもしれない。
髭が下を向く、ということは、格好良く髭を立てようとしても立たない、ということを意味するのだろう。もしかすると、憎き男の立たない髭を馬鹿にしていたのかもしれない。その思いはそのまま自分に跳ね返って来る。
啄木の「ローマ字日記」には、やつれた際に髪が伸び、「疎らな髭も長くな」ったということが書かれている。おそらく啄木は、髭を蓄えてもあまり生え揃わず、サマにならなかったのではないだろうか。学校の教科書などで見る啄木の写真はきまって童顔のつるっとした顔をしている。お約束のように私はその顔に髭を書き加えたが、本人としては髭について深刻に悩んだこともあったのかもしれない。今になって申し訳なく思う。
啄木は歌の中で、ことあるごとに憎んだ。
おほいなる彼の身体が
憎かりき
その前にゆきて物を言ふ時 『一握の砂』
あらそひて
いたく憎みて別れたる
友をなつかしく思ふ日も来ぬ
敵として憎みし友と
やや長く手をば握りき
わかれといふに
ゆゑもなく憎みし友と
いつしかに親しくなりて
秋の暮れゆく
氷嚢の下より
まなこ光らせて、
寝られぬ夜は人をにくめる。 『悲しき玩具』
「ゆゑもなく憎みし友」とまでくると、その友には同情せざるを得ない。
もちろん、「憎む」と言っても今の時代の感覚は異なるのかもしれない。それでもこの「憎む」という行為は極めて人間臭く、啄木をぐっと身近に感じさせるように思うのである。
好きなものや愛するものが何であるか以上に、何を憎むかにその人らしさが表れるものあろう。そんな視点で歌を引かれても…という作者の声も聞こえてきそうだが、ここは心を鬼にして「憎む」歌を見ていきたい――
(☞次回、3月8日(水)「憎むということ (2)」へと続く)