愛告げてのちの夕映え 理科室に聞きくれし友を憎みはじめぬ

佐伯裕子『春の旋律』(ながらみ書房:1985年)


(☜3月6日(月)「憎むということ (1)」より続く)

 

◆ 憎むということ (2)

 

「純粋培養」という一連から引いた。連作の他の歌や掲出歌の「理科室」という言葉から、高校時代を詠んだ歌と思われる。
 

理科室にて、想いを寄せる友に告白をする。しかし、色の良い返事をもらうことはできなかったのであろう。ひとり歩きながら眺める夕映えのなか、愛を告げた相手をむしろ憎く感じはじめる自分に気付く。やがて空は暗くなっていくのだろう。
 

「聞きくれし」という表現が残酷である。勇気を出して精一杯想いを告げる自分の言葉を、相手は聞いてくれている、というわけだ。それもひとつの優しさとも言えるが、どこか高いところから見下ろしているような余裕をも感じさせる。
 

愛情が、その対極に位置するはずの憎しみに一気に変わる。徐々に気持ちが冷める、というようなものではない。それは、電卓で数字を足し続けた結果、扱えきれない桁になった瞬間にエラーとなるようなもので、人間の心の在り方の本質のように思える。
 

訪えば見知らぬ生徒談笑すわが告白の椅子にもたれて

 

後日、再び理科室に行ったときの歌だ。自分にとっては特別な部屋の特別な椅子である「告白の椅子」も、誰かにとっては理科室のただの椅子である。それはちょうど、私にとっての「君」と、君にとっての「私」の関係とも言える。青春はいつだってままならない。
 

愛情の一歩先に憎しみがあるとするならば、憎しみの一歩先にも愛情があるのだろうか。誰かや何かを憎しみ切ることが、突然、愛に変わることがあるのだろうか。――私には、分からない。
 
 

(☞次回、3月10日(金)「憎むということ (3)」へと続く)