しどけなく電車に眠る少年の微かにひらくくちびる憎し

大井学『サンクチュアリ』(KADOKAWA:2016年)


(☜3月8日(水)「憎むということ (2)」より続く)

 

◆ 憎むということ (3)

 

電車のなかに締まりのない格好で眠る少年の、その半開きの唇に憎々しさを憶える。少年という総体が憎いと言うのではなく、くちびるまでに絞り込んだ上で「憎し」と言い放つ。その鋭いひと突きで、少年は風船のように弾けてしまいそうだ。
 

同じ連作に次のような歌がある。
 

水のなきユニットバスに膝折りて屈葬のごと身を沈めたり
未来への道順示す矢印は何処にも無くて迷う地下駅

 

鬱屈した心持ちが感じられる歌であるが、少年を見たのは通勤の途中か。そのだらしのなさへの憎さが8割、残りの2割には疲労ばかりの自身の生き方に対するねじれた気持ちがあるのかもしれない。
 

短歌の中に登場する「少年」は純粋で美しい存在として描かれることが多い。
 

湯屋いでし少年ほそきうつしみは夜の白き靄ひらきつつ来る  高野公彦『汽水の光』
生きてゆく理由は問わない約束の少年少女が光る湘南  早坂類『風の吹く日にベランダにいる』
くれなゐを抱くかたちに少年はポストの中の闇を覗けり  目黒哲朗『CANNABIS』

 

いずれも美しい映像が目に浮かぶ大好きな歌だが、どこか触れがたい物語の中の存在のようにも思える。一方で、大井学の少年は手を伸ばせば、その頭をこつりと小突けそうだ。
 

もちろん、短歌に詠んでも小突くことはない。社会における線引きがきっちりと引かれているのだ。その線を越えて手が出ないことと同じように、少年に自身を感傷的に重ねることもない。
 

同じような線引きを、歌集の次の歌にも感じる。
 

解雇つげればIDカードはずされて彼女は今からお客様なり
辞表を出す部下の伏目を見ておりぬ「驚く上司」という役目にて

 

解雇した相手は、「解雇された人」という感傷をくぐることなく、また、全くの他人となることもなく、「お客様」という会社にとってもっともありがたい存在に、きっちりと祀り上げられる。辞めそうだと思ってきた部下の辞表には、上司としてきっちりと「驚く」。
 

短歌的感傷を容易に寄せ付けない歌は、案外この残酷で厳しい世の中から目を逸らさないための、ひとつの意思であり、ひとつの強さなのかもしれない。
 

憎いものに対して、私はただしく憎いと言えているのか――ふとそんなことを考えた。
 
 

(☞次回、3月13日(月)「憎むということ (4)」へと続く)