生涯憎み続けるといふ一言をむしろなぐさめとして覚めをり

矢部雅之『友達ニ出会フノハ良イ事』(ながらみ書房:2003年)


(☜3月17日(金)「憎むということ (6)」より続く)

 

◆ 憎むということ (7)

 

前回は「憎まれたい歌」であったが、今回は「憎まれる歌」である。それも生涯かけてということだから穏やかではない。
 

掲出歌は、妻と激しく感情をぶつけあった場面であろう。一つ前の歌がこちらである。
 

冬空のほか何もなき屋上でもはやあなたを思はぬ不実

 

冬空が広がる屋上に立っても相手のことを思うようなことはないほど、愛情は冷めてしまっている。原因の一端は少なくとも自身にはある、という認識はあるはずだ。
 

そんな自身を、例えば「あなたなんて、すぐに忘れてやる」と突き放してくるのであれば、残る未練もあったのかもしれない。憎まれることは決して気持ちのいいことではないが、「生涯憎み続ける」ということは、相手は一生何らかの思いのベクトルを自分に向け続けるわけで、それだけの熱量を持ち続けるということである。
 

相手にとって、それだけの〈価値〉が自身にあることをなぐさめのように感じ、修羅場とも言える状況のなかで気持ちは覚めていく。心が身体から遊離して、自身と相手とをどこか斜め上から客観的に眺めているような感じがあり、そのことが、もはや二人の関係が元に戻ることはないであろうことを確信させる。
 

そして、掲出歌から歌集をすこしばかり読み進めたところで、二人は別れることになる。
 

離婚届の緑の枠につづられて筆圧よはき文字そよぎをり
印強く捺して離せば家の名は濡れ濡れとあはきにほひを放つ

 

憎まれることで得られるなぐさめがあるのであれば、憎み続けることで得られるなぐさめもあるのだろうか。思えば人間の感情というのは、分からないものであるが、それゆえ歌は詠み/読まれるものであるのかもしれない。
 
 

(☞次回、3月22日(水)「憎むということ (8)」へと続く)