光森裕樹


すがれゆくパルテノン多摩若すぎて憎まれるうちに教授になりたい

中沢直人『極圏の光』(本阿弥書店:2009年)


(☜3月15日(水)「憎むということ (5)」より続く)

 

◆ 憎むということ (6)

 

これまで何かを憎む歌を見てきたが、「憎む」という行為にはかなり強い熱量が必要となる。そんな強い熱量が自身に向けられることを、むしろ願うのが掲出歌だ。
 

学会や研究会があったのか、幾度か訪れた複合文化施設である「パルテノン多摩」が古びてきていることに気がつく。時の流れのなかで、建物だけではなく自身も確実に老いてゆく。一刻も早く、憎み妬まれるほど若いうちに教授になりたい――
 

「パルテノン多摩」という場所を知っている/いないに関わらず、脳裏には「パルテノン神殿」の風化した風景がうっすらと意識される。下の句の、周囲を煽り立てるような率直な願望の吐露は、上の句のもつ寂寞とした風景によって煽り立てられたものだろう。留まることのない時間を思うとき「若すぎて憎まれるうち」でさえ遅すぎるのかもしれない。
 

微分して負となるキャリアわが前にあり再校の字間なおしぬ
顔を出す会議が変わり末席にまた座るのだ一つ年を取り
人事より送られて来し封筒のたしかな薄さ昇任決まりぬ

 

「キャリア」「末席」「昇任」といった言葉選びからは強い上昇志向が感じられる。『極圏の光』はその点が特に注目された歌集であったように思う。しかし、いま歌集全体を通して感じるのは、人間関係や組織構造のなかで行き場なく高みへと追い立てられる姿だ。それはどこか、追われた山羊が険しい岩山や今にも折れそうな木を命がけで登っていくような印象と重なる。その危うさこそが、歌集を忘れがたいものにしている。
 

負け組はますます負ける 遊歩道の端にうずたかく雪かきの雪

 

一度足を滑らせれば、岩山や木を地面に叩きつけられるまで転げ落ちていく――だとすれば、勝ち続けるしかない。どれだけ強く人に憎まれたとしても。
 
 

(☞次回、3月20日(月)「憎むということ (7)」へと続く)