空のない窓が夏美のなかにあり小鳥のごとくわれを飛ばしむ

寺山修司『寺山修司全歌集』(1971年)

外に向かっても、空が見えない。そんな窓が「夏美のなかに」ある。
閉塞された窓を持っているような感覚に、共感するひとは少なくないのではないか。
ありそうでない、ないようである窓。
夏美の窓に、この世のひとびとの深い傷つきを、すべてひきうけてしまったような寂しさを感じる。

また下の句は、上の句とつよく結びついて、寂しさや欠落感をさらに広げる。
「小鳥のごとくわれを飛ばしむ」。
われが飛んでいるのは、夏美の窓のなか。空がないのに、どうして飛べようか。その矛盾、あるいは非現実によって、儚い物語がたちあがってくる。

そして、結句の「飛ばしむ」は夏美とわれのつよい結びつきをおもわせる表現だ。
世界からとり残されたふたりなのだろうか。
あるいは、愛しあえばあうほどそんな感覚になることもあるだろうか。

ふたりだけで完結してしまう世界がこの歌にはある。

この夏美の窓の歌は、以下の歌などとともに、寺山修司の初期歌篇のなかにある。

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

夏美はほんとうにいたのか。それはあまり問題ではない。
言葉にしたときから、描こうとする世界は言葉の世界になる。短歌の日付や事実は、仕掛けのひとつにすぎないのだ。

いずれにしても寺山修司の歌には、さまざまな想像力がかき立てられる。
たとえば夏美の窓の歌には、どこかかなしい明るさと圧倒的絶望感をつきつけられるのだ。

わたしの一首鑑賞もこれでおしまいです。見守ってくださった方、応援してくださった方、砂子屋書房の田村さんに御礼を申し上げます。
ありがとうございました。
魚村晋太郎さん、一年間おつかれさまでした。乾杯♪

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