岡井隆『臓器(オルガン)』(2000年)
人生で最もつらい瞬間、とはいったいいつだろう。
それは死の瞬間だ、と言うひとがいる。
いやいや、死はつらい人生からの解放だよ、というひともいる。
多感で未熟な若いころには、若いころなりのつらさが、多くの責任を負う壮年の日には、壮年の日なりのつらさがある。
最もつらい瞬間、つまり最大値というものがどこかにあったはずだが、体重や預金高とちがって、つらさは数値化できない主観的なものだから、はっきりといつだったと言えるひとは少ないにちがいない。
もし、あのときだ、とはっきり言えるひとがいたとしたら、それはかえって幸福なひとなのかも知れない。
主人公も、なにか特定の出来事を回想しているのではなく、曲折にみちたじぶんの生をふり返って、ふとこんなふうに思ったのだ。
いままでに経験した以上の艱難は、もうじぶんを襲うことはあるまい。
胸のうちには、安堵と充足にまじって、言いようのないさみしさがある。
或いは、安堵や充足とは、こんなさみしさと一緒にしかやってこないものなのだろうか。
内装とは、本の装丁のこととも考えられるが、部屋の内装ととっておく。
場面は、ホテルか瀟洒な食堂。主人公はひとりではない。
壁紙がブルー、それも青ではなく、蒼であるところに、みちたりた時間のなかで感じるさみしさが際だっている。
くりかへす。「習作つてのは人生にない。」究極の大き明るさ 『家常茶飯』
別の歌集にある一首には、内装の歌にくらべて晴れやかな印象がある。
内装の歌のさみしさの向こう側にひらけるあかるさ、さみしさと背中合わせのあかるさ、といってもいい。
じんせいは一度きり、というより、一日一日が一度きりであること。
短歌とはたぶん、そんな日々の一回性によりそうときに、もっともかがやきを増す詩型なのだ。
*
一年間、江戸雪さんと交代でつづけてきたこの一首鑑賞も、私の担当は今日で最終回です。
年明けからは新しいメンバーにバトンタッチしますので、ご期待下さい。
お読み下さった皆さま、励ましや助言を下さった皆さまに、この場を借りてお礼を申し上げます。
ありがとうございます。