吉野にはあの世この世を縫ひあはす針目のやうな蝶の道あり

小黒世茂『舟はゆりかご』(2016・本阿弥書店)

 

『舟はゆりかご』の「あとがき」に次のような一節がある。「日本人の源流を探索する旅を続けてきた。いつも見馴れた物や道具のひとつひとつを入口に、背後にある遥かなるもの大きなものを覗いたとき、それを守ってきた風土や継承してきた人びとへの憧憬がいっそう深まっている」。つまり現在が、どのような地層的時間の上にできているのかを探るのである。述べられている「背後にある遥かなるもの大きなもの」というのは、「物や道具」を手がかりにしていることからもわかるように、単なる想像や夢ではない。裏付け(=痕跡)にもとづいて時間を掘りおこしている。そこに得難い厚みがある。

 

吉野は、人が風土と関わった時間が、幾重にも折り重なっているような土地である。わたしは先ず吉野山の桜や西行法師を思い浮かべるが、奈良から熊野へつづく修験道や仏教の信仰の地でもあり、また中世の南朝に示されるように激しい政治の地でもあった。「背後にある遥かなるもの大きなもの」を覗くとは、そのような堆積した時間に、今生きている身が実感をもって触れるということだろう。意識は、現代の表層的かつ記号的な言葉とは逆方向に向いている。しかし、決して現在を離れない、つまり木乃伊取りが木乃伊になってしまわないところに魅力がある。

 

引用歌の主題は、蝶に導かれて歩く道に、ふと現われる「あの世」と「この世」の交差点。それが実在するかのように思われるのは、吉野という地名によってであろう。多くの人々が見た「あの世」と「この世」の境界である。

 

燃ゆる木を山の地声と思ふまで煙のなかにまなこをつむる

はつなつの車両に眠るわれを脱ぎ次の駅より蜻蛉とんぼとなりぬ

なかぞらに両手のばせば顔見えぬ嬰児がわれの親指にぎる

 

「あの世」と「この世」の往還を思う。