内山晶太『窓、その他』(六花書林:2012年)
(☜7月5(水)「生きると死ぬ (14)」より続く)
◆ 生きると死ぬ (15)
うさぎはさびしい死ぬ、ということを耳にしたことがあるが、広く言われていることなのだろうか。仮に、今ここに死んだうさぎがいたとしても、さびしかったからかどうかなんて、分かりようがなさそうだ。
犬や猫と違い、うさぎはペットとして強くこころを通わせるというものではなさそうだ。かといって、ハムスターなどの小動物よりもしっかりとした体の大きさと存在感がある。そんな、微妙な立ち位置とかわいらしさが相俟って、さびしさに死ぬこともあるのだろうと思わせるのか。
死ぬほどさびしい、けれども、さびしさに死ぬことはない、けれども、やっぱり死ぬほどさびしい――そういう行き場のない思いが、春の夜のぶらんこに合わせて往還するようだ。
遊具にはすこし窮屈な「おとなの軀」が地面から足を離して揺れる危うさと、大の大人が夜にぶらんこを漕ぐという、世間からの見え方における危うさ。そんな、文字通りふわふわと宙を浮いた感覚が、そのおおきな軀のなかに収まったうさぎのように繊細なたましいの存在を感じさせる。
「疲れた」で検索をするGoogleの画面がかえす白きひかりに桃の汁あふれ肘までしたたれるあらくれて一人桃を食うとき死ののちのお花畑をほんのりと思いき社員食堂の昼ひよこ鑑定士という選択肢ひらめきて夜の国道を考えあるくガスコンロの焔は青き輪をなして十指をここにしずめよという
「疲れた」という言葉で検索する。あらくれながら桃を食べ、死後に花野が広がることを想像する、など。これらの歌にも、同じ危うさを感じさせる。例えさびしさに死ぬことはなくとも、世間が求める「真っ当な人」からちょっとはみだすその勢いで、生の側から死の側に足をつっこんでしまいそうだ。
誰もが死んだことなく、歌を詠む。
しかし、生きると死ぬ、というのは確かなことなのだろうか。もしかすると、生と死はある日を境に切り替わるものではなく、まだら模様のように混ざり合い、日々の生活のなかでそれと気付かずに何度も潜り抜けているものかもしれない。
(〆「生きると死ぬ」おわり)