柚木圭也『心音』(本阿弥書店:2008年)
(☜7月19日(水)「かすかに怖い (5)」より続く)
かすかに怖い (6)
燃えるように暑い真昼の往来に、ふと街ゆく人の足が途絶える。そこにしずかな佇まいの火薬店が確かな存在感をもって現れる――
二句目の「往還」は、「行き来すること」ではなく「往来/街道」の意味で解釈すればよいのであろう。
暑さによって人の流れが絶えるがために、その街の本当の姿が見え、普段は気付くことのない火薬店の存在に気がつく。火薬という危うい存在は、「炎昼」という語の「炎」に炙られていまにも爆発しそうな恐ろしさがある。
そのような、恐ろしさの一方で、銃砲火薬店に「平沼銃砲火薬店」という具体的な名前があることもなんだか恐ろしい。
もちろん、「花屋」という名前の花屋が存在しないように、火薬店に名前があることは当然ではある。しかし、「平沼銃砲火薬店」という名称には、その火薬店を「平沼さん」と親しく呼んで利用する客や、「平沼」ではない火薬店もどこかに存在していることを意味する。花を求めるように、火薬を求めることが日常の一部である人々もいるわけである。普段接点のない世界が炎昼にふと垣間見える。
〈巣鴨59〉てふ名を与へられしパーキングメーター点滅しをり、真ひるまフルーツゼリーすくひつつ見ゆ大山勤ダンススクールに動きゐる影
柚木の同じ歌集から引いたこれらの歌も、機械や物に「巣鴨59」「大山勤ダンススクール」という名称がつけられており、その物事の確かな存在感を読者に手渡す。
名を知るということは、小さなことのように見えて、その物事との一本の回路を持つことではないだろうか。
次にまた燃えるような昼となったとき、用もなく平沼銃砲火薬店の扉に手をかけて中に踏み入れてしまいそうだ――
(☞次回、7月24日(月)「かすかに怖い (7)」へと続く)