今井恵子


安曇野と筑摩野分けて夜の明けを白く遙けく梓川見ゆ

窪田章一郎『槻嫩葉』(1983年・新星書房)

 

前回の茂吉の歌に続いて、もう一つ歌碑に刻まれた歌。歌碑建立の是非については、否定的な意見もある。たしかに功績自慢や自己主張が鼻につくこともある。しかし、縁ある人が訪ね、歌の深さを発見することがある。刻まれる歌は、代表作として知られていることもあるが、一般に、歌集の中ではとくに目立たないが、その地に立って読むと印象の強い歌が多い。掲出の歌碑は、松本市の真言宗智山派の寺院牛伏寺の境内にある。鉢伏山の中腹にある牛伏寺は、修験道と密接な関係をもつ古刹で、いまなお深淵な趣がある。

 

作者は、やや高い所から夜明けの梓川を俯瞰している。歌集で読んだときには、地形の説明をしているだけだと思ったが、碑の前に立ってみると、周囲に広がる境内の趣に、土地への親密さが喚起される。土地=場所の中に歌の言葉が置かれるのである。読む人によって情感が異なるのはいうまでもないが、土地=場所には、それを包摂する豊かさがある。

 

作者は、父である窪田空穂の故郷に特別な親しみを持っていた。梓川は松本盆地を流れる川で、川を挟んで北西部が安曇野、南側が筑摩野である。作者はこの地に生きた祖を偲んでいるのだろう。

 

今日を在るわれを思へば亡き親のおもひぞ重く身にこもりたる

親ありて故郷はあり子の子なるわが故郷もここぞとおもふ

槻落葉つむ屋根の上ひねもすを降りつぐ氷雨の音柔らかし

 

作者、七十代の境涯である。