映さざるものは見なくてよきものか辺野古の海をテレビは映さず

吉川宏志『鳥の見しもの』

 

マスメディアの報道姿勢への批判はかなり前から話題になっているが、どこまで伝えられているのかという疑問は濃くなるばかりだ。見えないところで進行している数々があるだろうとは思うものの、見えないことは意識の外に追いやられがちだ。

 

「辺野古」は、沖縄の普天間基地の代替施設として計画され、反対運動を押し切って着工された飛行場だが、掲出の歌は、それを歌いつつ、日本には、知らされない重要問題がほかにもあるのだろうと思わせる。歌集には【見るほかに何もできない 青海に再稼働を待つ大飯おおい原発】ともあり、「見る」という行為について考えさせる。

 

俯瞰的に物事を見る見方を「鳥の目」で見るという。状況の中に身をおいて見る「虫の目」に対置される。歌集標題の「鳥の見しもの」は、「歌集の中の一首から取ったが、渾沌としている時代の中で、はるかなものを見たいという願いが反映しているように思う」と「あとがき」にある。「見る」ことへの希求と実践がある。

 

ひらがなを初めて習う子に見せる「つくし」三つの釣り針のよう

二輌のみの電車が停まるこの駅の二輌のながさに秋の陽が照る

初めての投票に行く子とともに冬の比叡の尖りを見上ぐ

 

このような歌では、「見る」という行為が「三つの釣り針」「二輌のながさ」「尖り」という、際やかな形象を生み出す。見るべきものを見ようというだけでなく、それが短歌の表現として結実している。