鳥ならばずっと飛ばずに嘴で何かを伝え合っていたいよ

本川克幸『羅針盤』(砂子屋書房、2017年)

 


 

「鳥ならばずっと飛ばずに」は、飛び立ってしまって一羽一羽の個(孤)とはならずに、という読み方をするのがいちばん妥当という気もするのだが、はばたきというまさに鳥が鳥である根拠のようなものを放棄してとか、うんと力を使うべきところに力を使わず余力を残してとか、そういったニュアンスも僕は読み取った。
伝え合って「いたいよ」。これが「いたいね」「いたいな」「いたいぞ」「いたし」……というふうだったらどうだろうと考えている。たとえば「いたいね」だと、実際に相手に語りかけているにせよそうでないにせよ、ずいぶん雰囲気が甘くなる。「伝え合っていたい」というよりも、そのように言うことでふたりだけの世界を確認する感じ、というか。「いたいな」だとそれが自分寄りになる。自分だけで妄想してしまっている感じ。ところが「いたいよ」だとずいぶんニュアンスが違う。僕が感じたのは、切迫感だった。うすい涙とともにあるような切迫感。……その読み方が妥当かどうかまるで自信がないのだけれども。「何か」というところは、お互いに伝える内容は何でもいいのだ、伝え合うということそのものをしたいのだ、という読み方ができるのだが、切迫感というのを意識すると、具体的に伝えたい内容を意識するより先に「伝え合いたい」という気持ちが溢れ出ているということをむしろ伝えていて、「内容は何でもいい」は確かなんだけれども、「何でもいい」とさえ思っていない、ただ「伝え合う」の目的語を補うためだけの措辞という感じもしてくる。「嘴で」というのも、「鳴き声で」ではなく、もちろん「言葉で」でもなく、嘴という器官、つまりモノによって手段が表現されているところに、嘴をぶつけ合うのみで伝えるような、どこか制限されたニュアンスを感じる。「ずっと」の「っ」も、なんだか、鳥のからだを上から押さえつけるような、重たい促音だ。一首そのものの調べはわりあいにシンプルで、急いだり鈍ったりしないテンポが感じられるから、切迫感、というにはやはりためらいが残るのだけれども。

 

しかし『羅針盤』には、語の細かいニュアンスを歌の推進力にするタイプの歌(あるいはそう見える歌)は少なく、抒情や発見の輪郭の濃さによって明るく立つような歌が多い。そこに映し出された景や思いに長くとどまっていたくなるような歌ばかりだった。さらに何首か引きたい。

 

山頂も白くなるらんサーカスが帰り支度を始める頃は
あかつきを遮るためにカーテンを引けば刃(やいば)のごとき音せり
歯みがきの薄きチューブが倒れたり鏡のなかに身を映しつつ
古き世に何があったか知らねども土偶の口がひらいておりぬ
スマートフォンの写真をひとつ削除せり君に送ったひこうき雲の
歳月が世界を小さくする不思議 うすむらさきのクロッカス見ゆ
まだ冬を終えたばかりの噴水は空っぽで陽が渦巻いている
冬枯れの木々を抜ければふと戻る意識のごとく湖が見ゆ

※( )内はルビ