星なのか東京なのかわからない深夜の窓に遠くを見れば

法橋ひらく『それはとても速くて永い』( 書肆侃侃房:2015年)


 

最初にちょっと書いておきたいのだけど、この歌を見つけたのはわたしではありません。
先日行われたこの歌集の批評会にわたしはパネリストとして参加したんですが、わたしの選歌レジュメに掲出歌は入っておらず、つまり見落としていた一首です。同批評会の「推し歌バトル」という歌合形式のイベントで、登壇者のひとりである土岐友浩が「推し歌」として取り上げた歌で、見つけたもなにも歌を作ったのは作者なのだけど、どこでどのように引用されるのかというのは作られることと同じくらいに歌にとって大切なことだと思うので、経緯に触れておきます。そして、見落としていたことが悔しかったからではなく、批評会当日にはこの歌は、歌集の主題を「星」と「上京」だとする土岐友浩によって歌集全体との関係を中心に読み解かれ、また、「この窓ガラスに顔が映っているか否か」という些かナンセンスな方向に議論が流れたこともあり、一首単独でもうすこし掘り下げてみたくて取り上げます。

「星なのか東京なのかわからない」というフレーズだけでしびれる人はしびれると思うのだけど、ピンぼけ感が魅力的な一首。夜景への感想であることはわかるものの、実際にみているのが星と東京のどちらなのか、あるいは両方なのかという手がかりすらほとんどないくらいにこの歌のなかで星と東京は等距離に、それから等価に扱われている。どっちも遠い。どっちも大事じゃない。どっちもきらきらしてる。
そういえば同歌集には「直喩なら殺されました」という上句の歌もあるのだけど、掲出歌では直喩的な内容がフラットに表現されている。「星のような東京」あるいは「東京のような星」というような直喩表現、あるいはそこまで露骨ではない場合でも、二物がむすぶ喩的な関係は主従がわかりやすい。だけどそこを「わからない」と手放すこの歌は、結果的に広い空間を呼びこんでいる。数キロ、せいぜい数十キロの距離の街と、何万光年も先の星空を倒錯するのは、宇宙に立っているのと同じようなことではないだろうか。直喩の「ような」という接続部分を認識ではなく体感が担ってしまった一首のように思う。
しかし、この構文なら似たようなことがなんでも言えるかというと、たとえば「花なのかカーテンなのかわからない」とか「虫なのか鉄塔なのかわからない」とかの場合、これらが表現として成功するかどうかはともかく、少なくとも読み手の視線は「わからない」という作為に向くと思うので、掲出歌は、「わからなくないだろ!」と言わせないギリギリのラインの名詞の斡旋も奇跡的に効いているんだと思う。
また、星と東京が反転し得ることもこの歌のスケールの大きさに寄与していて、「星空&東京の夜景」と読んだ場合には星空は東京を構成するものの一部のようなものだけど、「星」が地球である可能性を否定する材料も掲出歌にはなく、その場合には東京のほうが星を構成するものの一部である。
上句の話ばかりしてしまったけれど、下句は上句を支える必要最低限にして充分な情報量という印象。「深夜」や「遠く」が星や東京を夜景のなかに留め、「窓」という接眼部分を近くに置くことが上句の光景の広がりを安定させて、「見れば」という倒置は、上句に送り返すことで心情的な余韻を切るのがいいと思う。