平岡 直子


生理中のFUCKは熱し/血の海をふたりつくづく眺めてしまう

林あまり『ベッドサイド』(新潮社:1998年)
※歌中の / は改行


 

「ここ」と言えても「これ」とは言えない
  脚のあいだのつめたい廊下/林あまり

 

結局はいい匂いのする男のもとへ
 あきらめたように降る雪の朝


 

いっけん過激な作風にみえる林あまりの歌に色濃く漂っているのは諦めだと思う。初期から近作まで貫かれている分かち書きというスタイルも、短歌に対してアウトローなスタイルにもみえつつ、改行の部分で心が折れる音がいちいち聞こえる。恋愛が自分にとってどれだけ切実な必要悪であるとしても、その必要悪の「悪」の部分を無視できないという潔癖さが、「必要」と「悪」をもっとも接近させる性愛の部分を露出させるように思う。
掲出歌も、だから、「生理中のFUCK」に至るまでの諦め、開き直り、それゆえの挑発的なフォアレターワード……という背景を想像してしまうけれど、それはそれとして、この歌はなにか諦めの先の景色をみせてくれるような気がする。
表記をできるだけ正確に引用するために再掲します。

生理中のFUCKは熱し  
 血の海をふたりつくづく眺めてしまう


分かち書きの前後にずいぶんテンションの違い、時間差があるけれど、それらを「血」が接続している。まずポイントになるのはこの血の温度で、体内にあるときのだいたい体温くらいのぬくもりが、体外ではやや冷えているはず。その小さな振れ幅を、「血」の直前と直後に配置された「熱し」「海(のつめたいイメージ)」が極端にする。
「熱い血の海」でわたしが連想するものに、海じゃないけど「血の池地獄」という仏教の地獄がある。血がぐつぐつ煮えてる中で罪人が苦しんでいる絵のあれですが、あの地獄は不浄の血(=経血や出産時の出血)を流した女がいく地獄だという説があります。その地獄を念頭に置くと、掲出歌で「熱い」と「血の海」が改行によって分断されていること、下句で「ふたり」が海の外にいることは、「不浄の血」のイメージの相対化のように思える。地獄への連想を抜きにしても、経血というのはなんとなくうしろ暗い感じに扱われがちなもので、また、古くさいことをいうとセックスと血液の取り合わせには処女性のイメージなどもあるかもしれないけれど、この歌の勢いは、結果的に経血をうしろ暗く扱わせないことを諦めていない。血の海を熱くたのしく泳いだあとに岸からけろっと振り返る「ふたり」が血にまつわるうしろ暗さを突き放す態度は上句の語気のわりにあんがいクールなもので、必要悪に敏感な作者だからこそ、経血が「必要」、あるいは「不必要」なものであっても「悪」ではないという事実を切り分けることができたのではないかと思う。
歌集中の連作の文脈としてはあきらかに異性愛の歌だけど、事後の光景において体液が経血しか提示されないことへの深読みをわたしが諦めないでいられるのも、このクールさのおかげでもある。