染野太朗


恋ですよ 芋の芋まで掘り起こしありったけポテトフライにしたい

阿波野巧也「さらに音楽は鳴り続ける」(「短歌研究」2016年11月号)

 


 

僕は「口語短歌」という用語をあまり信用していない。「便宜上、」と付け足しながら僕もその用語を使ってしまうことがあるのだけれども(そしてその「便宜上、使う」はものすごく問題のある行為だと思うのだが、本題から逸れるのでそれについてはここでは触れない)。そもそも「口語」、そしてその対となる概念の「文語」が、言葉のどの範囲を指し示しているのかとてもわかりにくい。よく言われることだが、例えば〈「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの/俵万智〉という歌は、本当に「口語」短歌だろうか。現代語とは言えるだろうが、実際の日常会話でこんな芝居がかった言い方、ふつうはしない。現代語短歌と言うのももちろん違う、「現代」の範囲がどこからどこまでか、わかりにくいから。また、五七五七七のリズムの上では四句から五句の句跨りが目立ち、それを意識しながら読むが、そういう句跨り的な言い方も日常ではふつう起こらない。かといってもちろん、古語辞典に載るような文語助動詞などが使われているわけではなく、文語の短歌とも言えない。だったら、書き言葉の短歌、だろうか。では、書き言葉とは何か。とにかく、「短歌というジャンルにおける〈口語〉のイメージ」の範疇にある歌だとは思うが、それを「口語」短歌と言ってよいのかどうか。他にも理由はあるのだが、いずれにせよ、ざっくりとした二項対立的な「口語(短歌)/文語(短歌)」という言い方・分類には問題が含まれるはず。

 

ただ阿波野巧也の歌については(いや、阿波野の歌だけではないのだけれど)、僕はそれを「口語短歌」と言いたくなってしまう。以下、いつも以上に主観の範囲でものを言います、読んでくださるみなさんはそれぞれで「そのとおり」とか「いや、違います」とかつっこんで、あとでそれをこっそり僕に教えてください。

 

阿波野巧也の歌を読んでいるとよく「なんとなくこの言い方は変だな」と思うことがある。こんな言い方、ふつうするだろうか、と思う。それは、上に記した「芝居がかった言い方だから」とかそういった類いのものとは別の違和感だ。例えば今日挙げた歌で言うと、「芋の芋まで」と「ありったけポテトフライにしたい」。「芋の芋まで」ってまさか、種芋まで、ということではないだろうな、ということは「そこにある芋を残らず」ということだろうな、でも、それを日本語として「芋の芋まで」と表現できるだろうか、と思う。それから、「ありったけ」の使い方。副詞として用言に係っていく使い方もたしかにできる語だが、なんとなく違和感が残る。名詞として「ありったけ(の芋を)ポテトフライにしたい」という補い方をするのもこの場合はちょっとおかしいだろう。

 

ところが、「短歌」ということを離れて、誰かと話すときに日常語としてこういう使い方をするかどうかと、実際に誰かと会話するつもりでよく想像すると、違和感はほとんどなくなってしまう。「芋の芋まで」も「ありったけポテトフライにしたい」も言えそうだし、自分では言わないにしても、それが誰かの発話として出てきたときにいちいち「今の表現、変だな」と思わない気がするのだ。

 

自分の、日常の言葉の経験・言語感覚が、阿波野の短歌によって、それこそ掘り起こされ、輪郭を与えられたような感じがしてくる。

 

……というようなことはふつう、文語の歌では起こらない。そもそも文語の歌の語彙や語の斡旋、短歌的な修辞というのは、短歌そのもの(ひろく「古典文学」と言ってもよいが)において経験するものだから、「こんな言い方するかな?」ではなく「こんな言い方があるのだな」と、ときに辞書で用法を確認したりしながら、むしろそれを新しいものとして摂取していく形をとる。多くを「この言い方もアリなんだな」として、受け入れていく。

 

ところが阿波野の歌を読んで起こることはそれとはまったく異なる。「こんな言い方するのかな?」と疑問をもつ。疑問をもつが結局、「そういう言い方が、日常の場面においてはあり得る」ということに気づく。それは「摂取する」というのとはまったく違う。自分自身が自覚せずにいた言語感覚を照らし出される、という形で阿波野の歌はそこに現れる。いや、阿波野の歌のすべてではないし、むしろ阿波野の歌の中でもそういった歌は少ないのかもしれない。でもとにかく僕はそういう感覚になる。

 

だとしたら阿波野の歌はめずらしい〈新しさ〉を含むのだと思うが、そもそも僕の言語感覚でしかそれを考えられず、そうなってくると僕の言語感覚の質やカバーする範囲によって、めずらしいもめずらしくないも、新しいも新しくないも決まってしまうので、新しいのかどうか、結局のところ自信はない。

 

今日の歌、「芋をがんがん揚げてポテトフライにしたい」と言いたくなるほど高揚感のある恋、ということでまずは読む。ただ、恋の高揚感を描いた歌などいくらでもあるわけで、それが上のような統語の下で、「芋」や「ありったけ」や「ポテトフライ」といった各語のイメージを伴わせながら詠まれるところに、この歌にしか導き出せない「高揚感」の根拠を僕は見る。そしてさらに大切なのは「恋ですよ」だろう。先日この欄で〈鳥ならばずっと飛ばずに嘴で何かを伝え合っていたいよ/本川克幸〉を扱ったとき、結句の「いたいよ」について、これが「いたいね」「いたいな」「いたいぞ」「いたし」等だったらどうかと考えた。そのときは「いたいよ」のニュアンスにそれなりの答えを出せた。しかし「恋だよね」「ですね」「だった」「でした」「でしょう」……さまざまな可能性と比較したとき、「恋ですよ」はそのニュアンスがかなりわかりにくいと思う。二句以下の高揚感とは逆の、落ち着いた感じをもたらすようでいて、でもその高揚を削いだりはしない。「ですよ」のニュアンスが、とぼけているようであり真面目なようでもあり、つかみにくい。でも、まさにこの「ですよ」によって、高揚感が失われることは避けられたまま、高揚した恋に色・質感が与えられている。

 

……本当に不思議なのだが、阿波野の歌を読むとき僕は、このように自分の言語感覚を点検しながら、歌の表す言語感覚にやたらと慎重に近づこうとしている。そしてついにそれを感じ取れない不全感が残る。しかしその不全感は決して不快なものではない。そして、自分のもつ言語感覚のうち、自覚できていなかったところを指摘されるのには、快さもある。……やはり今日は長いわりに何も言っていないのだが、懲りずに次回も別の観点で阿波野巧也の歌を取り上げる予定です。