平岡 直子


日本中八十円切手で行くのかと訊きて息子の電話切れたり

花山多佳子『木香薔薇』(砂子屋書房:2009年)


 

八十円切手に対する絶大な信頼がある。
この歌が何を言っているのかさっぱりわからないという人はあまりいないだろうなーと思うのだけど、それってけっこうすごいことではないだろうか。情報がこれだけ省略されて切り詰められている歌なのに。まず「郵便物とは」、くわしく言えば「定型内の一般的な封書は」が省略されていて、「八十円切手で」にそれはすべて含まれている。「日本中〇〇で行くのか」という質問の「日本中」は、〇〇に他の単語(一般的な交通手段以外の多少飛躍のある単語であっても)を代入してみればわかるとおり、「あなたはその手段で全国一周をするのか」というような周回を想像させる言葉だれど、掲出歌のなかでは「料金は距離に比例しないのか」という問いとして、つまり任意の起点からの直線的な距離として扱われていて、その些か無理のあるはずの用法にもまた切手の性格が周知されていることへの信頼が表れる。「訊きて~切れたり」は、「回答をする前に電話が切れた」というようにも「用件は切手についての質問のみで、それ以外の話はしなかった」というようにも読めるけれど、どちらにしても答えられなかった、あるいは答えた回答の部分は省略されている。書かなくても当然「はい、日本中八十円切手で行きますよ」だからだ。確かに八十円切手を貼れば封書は全国どこでも届くけれど、この歌に貼られた八十円切手もまた書かれていることを強力に読者に届けている。
対して、結句に表れているように電話に対する信頼はない。同歌集に〈つぎつぎに「おじやましました」と言ふ声の聞こえて息子もゐなくなりたり〉という魅力的な歌があるのだけど、ここにもまた「声」に対する不信がある。これをすこし不思議なことのように思うのは、掲出歌は字面より音が重視された作りだと感じるからである。省略による切り貼りの多いこの歌が自然な一文のように立つのは、切り貼りテク自体の妙もありつつ、おもに「にほんじゅう」「はちじゅう」や「きって」「ききて」「きれた」などの音のリフレインが構成しているもののように思う。
切手に対する信頼は、定量性への信頼だと思う。電話は伸び縮みする。とつぜん切れたりもする。「何グラムまで何円」も決まっていない。〈かの人も現実(うつつ)に在りて暑き空気押し分けてくる葉書一枚〉というような歌からも、そもそも郵便に対してフェティッシュな作者なのだろうなとも思うのだけど、日本中どこでも八十円切手で届くという制度の合理性と奇妙さは、三十一音ですべてが言えるはずだというわたしたちの短歌に対する妄信に近いところがある。花山多佳子の歌に目立つモチーフは「夢」だけど、この歌集に表れる「息子」や「姉弟」やあるいはほかの風景はしばしばぼんやりしていてきれぎれで、夢の歌のほうが彩度が高いことが多く、現実の不確かさをよく知っている作風である。つまり、この作者にとっての歌作とは、電話から聞こえる不確かな声を、確かな郵便物に認めつづけるようなことなのだろうと思う。蛇足なのだけど、「娘」の歌だけは距離が近くて、わたしにはそれはすこしだけ苦しい。

 

この歌が作られたころは八十円だった切手が今では八十二円……というような時事ネタは省略しました。煙草は今や四四〇円です。