柏崎驍二/秋日照る林の岸のみむらさきうつくしければ帽脱ぎて見つ

柏崎驍二第七歌集『北窓集』(2015・短歌研究社)


 

誰に対してでもなく、ただ風景の美しさに向かって帽子を脱いでいる。川辺だろうか。「みむらさき」は紫式部の実のことで、枝垂れた細い枝に美しい小さな紫の実をたくさんつける。ふとその実の美しさに立ち止まる。帽子を脱いで、それからの見つめていた時間が思われる。小さな木の実に対する、誰の目もない、なんの意味もない行為である。

 

帽子を脱ぐという行為を人はどんなときにするだろうか。
ひと昔前は、やあやあなんて言って帽子をちょっと脱いで挨拶する光景はよくあった。お寺や教会でお祈りをするとき、お墓参りをするとき、球児が試合前に帽子を一斉に脱いだりもする。

 

基本的にはコミュニケーションのひとつの礼儀作法として、誰かに、それが神様や死者の場合も含めて、誰かに向かって帽子を脱ぐ。

 

けれども、この歌では、ある風景に対しての行為として帽子を脱ぐ人のシルエットが置かれていて、「うつくしければ」という順接が行為そのもののうちにある敬虔な気持ちを純化しているのだ。

 

この歌が置かれる「ぎしぎしの穂」19首の一連には東日本大震災の年の秋の頃の日々が詠われている。柏崎驍二は盛岡に住んでいたが、ふるさとは三陸であった。

 

・百日紅のはなに風たつ暑き昼またおもふ海に流されし友を
・でんでんこ逃げろど言ふがばあさんを助けべど家さ馳せだ子もゐだ
・黒き波を泳ぎし友にあらずやと思ひゐたれど水撒きに出づ
・嘆きあひてゐる間に夏の過ぎゆくか草庭にオンブバッタの殖えつ
・草踏めば親にとりつく子らのごとわが裾に付くちぢみざさの実
・秋日照る林の岸のみむらさきうつくしければ帽脱ぎて見つ