花山周子


石川啄木/うつとりと/本の挿絵(さしゑ)に眺(なが)め入り、/煙草(たばこ)の煙(けむり)吹きかけてみる。

石川啄木『悲しき玩具』(1912年)


連休の予定を勘違いしていて、今日のぶんを書かないまま「外出」してしまいました。

生沼さん、ありがとうございました。「夜までに」と書いて下さったんだけど、

帰ってきたのが夜で、もう今日は残すところ二時間半。

 

『一握の砂』の頃の啄木の歌というのは、つくった当時どこまで意識的だったかはわからないけれど、どこか格言的で象徴性を有していた。

たとえば、この、

 

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

 

は、実際的なところでは函館の海を思いながら作られたと考えられるけれど、それを「函館の~」や「北海の~」などと言わずに「東海の小島の磯」とすることで、世界から見た日本の小島という明治の青年たちの心象を象徴する歌となっている。そこでの「われ泣きぬれて蟹とたはむる」は啄木でありながら、明治の青年一人一人に重なる。だからこそ、啄木の歌は人口に膾炙したといえる。

 

先日の、

 

高山(たかやま)のいただきに登り
なにがなしに帽子(ぼうし)をふりて
下(くだ)り来(き)しかな

 

この歌でも、一種の格言として読めるところがあるわけだが、
一方でこの、「なにがなしに帽子をふりて」という個の具体性が注目される。そして、この人間の機微、断片的な行動のほうを啄木はより先鋭化していったと私は思っている。
『悲しき玩具』の歌というのは、そういう意味で非常に現代的である。

 

うつとりと
本(ほん)の挿絵に眺め入り、
煙草の煙吹きかけてみる。 ―――『悲しき玩具』

 

この歌はもう十年以上も前から何度もいろんなところで書いたりしゃべったりしているのだけど、ここにある人間の意識の流れの捉え方は現代のたとえば永井祐や今橋愛のような口語短歌を思わせる。

 

うっとりと本の挿絵を眺めている。「眺め入り」つまり、吸い込まれるように、眺めている。それから、ふっと、そこに煙草の煙を吹きかけるのだ。どうしてそんなことするのかと聞かれれば、当人にも特に理由はないのだけれど、煙草を吸いながらそれを眺めていて、ふっとそこに吹きかける、というのは人がいかにもやりそうなことだ。けれども大事なのは「みる」というニュアンス。ここに機微がある。「煙草の煙われは吹きかく」などと言ってしまえば、何かが抜け落ちる。いかにもやりそうな感じが削がれる。「吹きかけてみる」という、この「みる」も行為の一部なのであり、意識の流れなのである。そういうことをやってみる。という、ここにこそ、啄木の人間を捉える現代性がある。