生沼 義朗


小島熱子/過ぎてゆく時間のなかの昼食に黄身もりあがる玉子かけごはん

小島熱子『ポストの影』(砂子屋書房・2019年)


 

小島熱子(こじま・あつこ)は「短歌人」同人。『ポストの影』は第5歌集で、2015(平成27)年初夏から2019(令和元)年初夏までの4年間の作品が収められている。歌集題は歌集最初の一連の

 

 

ポストの影あはく伸びたるコンビニまへ春の愁ひが溜まりてゐたり

 

 

の歌に拠る。歌集の他の歌を読むなかで

 

 

わが額に白を刻印するごとく辛夷の花がひとつ咲きたり
大釜に煮る海水はあめいろを湛へて黙す能登塩畏(かしこ)し
ゆずすだちかぼすひきつれ冬が来るついでにうつつの凹凸も連れ
フリースの手ざはりやさしきこの軽さ派遣社員の姪をおもひつ
炎昼に坂ころげゆく小石あり 他動的とはいたいたしけれ
雁皮紙に散らす青墨の文字かすれ外はきのふとおなじゆふぐれ
みなとみらいに日本丸が帆を張りぬはるかとほくより来しもののごとく

 

 

などの歌に立ち止まった。たしかな技倆で生活の実感や旅行先の嘱目を丁寧に歌に掬い取りつつ、小池光の帯文にある、「歌にはいつも明るい瀟洒な影がさす。それは生のアンニュイでもあるが、同時に、まだまだ見果てぬこの世の夢を語って尽きることがない」という一文は、小島の歌の特徴を端的に言い表している。

 

また、小島はあとがきで「私はつづまるところ、「時間」を詠んでいる気がするのだが、特にここ数年、現在ただいまの時間に、突然、あるいはふっと過去が入り込み、共存したり、溶け合ったり、ある時などは未来さえ侵入してくるという、何か渾然とした時間感覚に浸ることが多い。そうした感覚から生まれた作品が最近はふえているような気がしている」と述べていて、どの歌にも時間に対する把握がしっかりと刻みこまれている。これは小島の年齢と無関係ではない。自らの寿命や残り時間を意識せざるを得ない年齢に差し掛かっているからこそ、今まで過ごしてきた歳月という過去やあるいはいつまで続くか不透明な未来が、現在の時間の把握に入り込んでくる。

 

もちろん時間の把握の度合いは歌によって濃淡があるが、掲出歌は時間の感覚が色濃く出ている方の歌だ。一首の意味内容は、ある日の昼食に卵かけご飯を食べたというだけのことに過ぎない。しかも掲出歌における具体物は「玉子かけごはん」しかない。しかし「過ぎてゆく時間のなかの」が冒頭部に置かれることで、ある一日の昼食の背後に月単位以上の時間の流れがあり、卵かけご飯はそのひとつであることが読者に明確に意識される。結果「黄身もりあがる玉子かけごはん」が独特の質感を得て、一種の異化効果が現れる。これは小池光が第三歌集『日々の思い出』で、歌に詞書として日付を付すことで時間を可視化し、異化効果を起こしたことと方法論は多少異なるものの、効果は近い。

 

道具立ても選りぬかれていて、卵かけご飯という素朴な献立を昼食に食べる。それはおそらく自分ひとりの食事だから、洗い物を極力増やしたくないから、年齢的に重い食事はいらないなど様々な理由があろう。そうした要素を含んだ「玉子かけごはん」の質感が歌の生命線であることはもちろん、「黄身もりあがる」がなまなましい時間の経過と生の実感を示唆している。その描写に下句をまるまる費やしたのは、時間の経過と生の実感が今現在の小島にとって大きな比重を占めているからだ。

 

小島の描く時間は、哲学的概念としての時間ではない。しかしまぎれもなく生きている時間のなかで思索しつつ得た手応えに基づいている。その手応えが端的に、そして如何なく発揮された具体例が掲出歌の「玉子かけごはん」だ。ゆえに、この「玉子かけごはん」は読者に対して大きな存在感と説得力を持っているのである。