斎藤茂吉/赤茄子の腐れてゐたるところより幾程(いくほど)もなき歩みなりけり

斎藤茂吉『赤光』・大正2年(1913年)


国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

 

川端康成の小説を読んでいなくてもこの一文だけは知っているという人は多いと思う。私自身『雪国』を読むずっと以前から特急などでトンネルを抜けるたびにこの冒頭の一文を思い出すのだった。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は常にこれからはじまる何かを予感させる優れた冒頭であって、だからこそ、ずいぶん後になって実際に『雪国』を読んだときには意外な感じがした。私はこの冒頭からはじまるべき物語を漠然と想起しているようで実際には何も想起してはいなかったのだ。私がこの一文から味わっていたものは本家の小説から切り離されたことで発生する抒情性であった。

 

赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり

これなども、どうにでも解釈できますけれど、この「赤茄子の腐れてゐたるところより」なんていうところの連想は、やはり性的なものが、どこかに介在していると読んだ方がいいでしょう。ただトマトがそこに腐っていた、そこから歩いてきた、というだけではないと思います。しかし、かといってこれをイコールにしてしまってはだめなんです。ある人が、「この『赤茄子の腐れてゐ』るというのは、女遊びをしてきたということなんだ」と、言っていましたけれど、そこまで直接イコールにすると、またつまらないんですね。そこで、「歩みなりけり」という詠嘆に至る中に、折り畳まれた性的な屈折などが入ってくるというのが、ポイントだと思います。

 

これは『斎藤茂吉―その迷宮に学ぶ』(1998年、砂子屋書房)での小池光の発言であるが、「女遊びをしてきたということなんだ」というある人の説に対する小池の「つまらないんですね」という感想は、私が『雪国』を読んだときの感想と近いように思う。

 

赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり

 

この歌は発表当初よりいろいろに読まれてきた。小池が言及するような、トマトの腐っていたものに一種性的な要素を嗅ぎ取る見方もできるだろうし、もっと通俗的に歌の背後に茂吉の女遊びを読み取る人もいた。「赤茄子」の象徴性や実存性をも指摘されてきた。私自身は象徴性よりかは実存性のほうに興味がある。あるいは、塚本邦雄『茂吉秀歌『赤光』百首』においてかなり痛烈な批評を展開している。いろいろと重要であるし、茂吉の自註もまるごと引用されているので全文を下に引用しておきますが、この塚本の批評において私が特に注目するのは「読者の穿鑿(せんさく)は及ばぬと作者は言ふ(筆者注:斎藤茂吉『作歌四十年』)。及ばねばこそ、ほしいままに想を馳せ、欠落部分を充たそうとするのだ。」という点である。

 

私がこの歌から感じていること。それはこの歌が小説の冒頭のようであるということである。「赤茄子が腐っていたところから幾程もない歩みであった」というのは小説の冒頭に置かれていればまさに名文といえる。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」と同じく、それは、これからはじまる何かを予感させる優れた冒頭たり得るのだ。塚本はこの歌の「欠落部分」というものを指摘している。これは、たとえば、河野裕子の、歌は大事なところを詠わないのがいいという所謂ドーナツ説にも通じるように思われるけれど、この歌においては、そのような読者が補うような「欠落部分」があるのではなくて、寧ろ、欠落の手前に、あるいは欠落そのものの上に歌が置かれているように見える。一篇の小説の冒頭のように、これからはじまるべき何かを予感させる一文がここに切り出されたことによって、歌そのものが抒情装置と化しているのだ。

 

【編集部より】

以下、長いですが引用です。

今回の鑑賞のために必要なので、ぜひお読みください。

 

塚本邦雄『茂吉秀歌『赤光』百首』より


赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり

有名なことにかけては『赤光』中屈指(くっし)の歌であらう。『赤光』を通読したことはなくとも、この一首は、「死にたまふ母」の数首と共に知つてゐる人は少なくなからう。そして「のど赤き玄鳥(つばくらめ)」や「遠田(とほた)のかはづ」に、理屈抜きで感動したやうに、「赤茄子」に心搏(う)たれた人は、まづ、絶対にゐないだらう。ある人は、どうして、この歌がそれほど名高いのか、不可解で仕方ないと小首を傾(かし)げる。気の弱い一人は、おもしろみの感じられないのは、自分の頭の悪いせゐかと俯(うつむ)く。
特殊な何人かはこの作品を認め、至妙の味はひだと舌鼓を打ち、先の「判らない」人人から羨望の目で見られる。勿論半信半疑の三白眼で後(うしろ)から睨(にら)まれてもゐるだらう。猜疑(さいぎ)の目は時を得て開き直る。ではどうして、どこかそれほどおもしろいのか、貴方はこの歌のいかなる点、いかなる部分に心を動かされ、目を細めるのか、逐一(ちくいち)解説してくれと、真顔で迫る。自称理解者ははたと困惑する。適切な言葉が見つからない。無理矢理喋(しやべ)らうとすると、それに費す言葉は、実体のないそらぞらしいもになつて、相手の心に届く前に消えてしまふ。彼は立往生して、かういふ始末の悪い、しかも魅力のある歌の作者を憎むやうになる。詩歌とは、詩歌のおもしろみとは、つひにそのやうなものであり、曰く言ひがたい、理不尽な美の幻影を、彼自身垣間見(かいまみ)たことを知らずに。
この歌に関して、およそ三分の一の人は拒絶反応を起して、横目で睨(にら)み、口を開けば、何か有りさうで何も無い歌と呟く、三分の一は先の所謂(いはゆる)理解者のやうに、おもしろみは判つてゐながら、その理由が正確には摑み得ず、何となく後(うしろ)めたく、自分一人楽しんでゐればいいと半ば居直つてゐる。残りの三分の一は、明らかに過大評価して、稀有(けう)の傑作と考へこんでゐる。褒める時はシュールレアリズム論に始まつて、戦後早早の実存哲学まで援用して口角(こうかく)泡(あわ)を飛ばす。そのくせ、実は、彼らのほとんどは「茂吉」の署名あるゆゑに、あへて認め、あへて称揚したがるのだ。読人不知なら、掌を返したやうに貶(けな)すだらう。尤もかかる例は茂吉の歌の場合他にも多多あり、また他の歌人にも例に事欠かぬ。作者信仰は、結社の内部批評にその例最も多く、ために真の秀作さへ汚(けが)されることも有り得る。
私は特殊な発想と文体に甚しく引かれる。残酷な断定と切捨に反撥を感じつつ、舌鼓を打つ。作者の、例によつて、恐らくは無意識の、鋭い言葉の選びに膝を打つ。だがそれ以上は肩透かしを食ふから、作者みづからの弁に一応耳を傾けよう。すなはち「この歌は、字面にあらはれただけのもので、決してその他のからくりは無いのである。トマトは赤く熟して捨てられて居る、これが現実で即ち写生である。作者はそれを目にとめ、そこを通つて来たが、数歩にしてふと何かの写象が念頭をかすめたのであろう。その写象は何であつても、読者はそれを根掘り葉掘り追求するには及ばぬ底(てい)の境界である。恋心であつても、懺悔であつてもかまはぬ境界である。併し結句に『歩みなりけり』と詠嘆してゐるのだから、その写象とおふものには一種の感動が附帯してゐることが分かる。その抒情詩的特色をば、かふいふ結句として表現せしめたものに相違ない。さういふのをも私は矢張り写生と云つてゐる。写生を突きすすめて行けば象徴の域に到達するといふ考へは、その頃から既にあつたことが分かる」結局、隔靴掻痒(かくくわさうやう)の感は免れないが、到頭ここで茂吉が、写生の究極は象徴と言つてしまつたのを聞けただけでも儲けものだ。写生は手段、目的は象徴と言ひ変へも可能である。

バケツより雑巾しぼる音ききてそれより後の五分(ごふん)あまりの夢 『寒雲』

私はトマトの歌を読むと反射的にこのバケツの歌を思ふ。同じパターンの最悪の例として、いささかの嫌悪と共に引き比べる。主部、すなはち目的の部分を意識的に断ち切られた掲出歌に、異様な美の戦慄(せんりつ)を孕(はら)ませたのは、「腐つた『赤茄子』」である。これは決定的で動かせぬ。東京郊外で目撃したか否か、その名で呼び馴れてゐたかどうかは問題ではない。消された主部に関る幻想も、悉くこの「赤茄子」が決定する、「腐つた『南瓜(かぼちや)』」でも、「新鮮な『バナナ』」でも、歌にはならず、第一茂吉が歌ひもしなかつたであらうことが、一番肝腎な点ではあるまいか、読者の穿鑿(せんさく)は及ばぬと作者は言ふ。及ばねばこそ、ほしいままに想を馳せ、欠落部分を充たさうとするのだ。大きな疑問符をつけたまま作品は終り、読者は推理の快楽を与へられた。何を以て充たすか、いかにパズルを解くかで、この作品は逆に、享受者の生き方、美学、その他を照らし出すのだ。ただ、作者もこのパターンで二度とは成功はせず、まして模倣は空しい。