生沼 義朗


平山繁美/子は同じ看護師とはいうものの土偶と埴輪くらいは違う

平山繁美『手のひらの海』(本阿弥書店・2019年)


 

平山繁美(ひらやま・しげみ)は1970(昭和45)年生まれ。「かりん」「銀座短歌」「2038短歌会」に所属。『手のひらの海』は第一歌集である。

 

 

地球儀を回してみると海ばかり袋状なるわれも海水
死児産みし人も産科に入院す何処へ逃げてもみどりごの声
沐浴槽買わずにシンクに子を洗う国家資格を泡立てながら
神様はおひとりですか電柱は空を抱えておおいに撓る
手のうちのサイコロ投げるここからはあなたのいない地図がはじまる
知らぬ間に子は孤児院へ移されてテトラポッドを破砕する波
こんなんじゃなくて綺麗な赤でなきゃ私のイメージに合わない鼻血
奪われぬようにお皿を抱え込む子の十一ヶ月は空白のまま

 

『手のひらの海』は自身が子供を産むところから始まり、離婚で離ればなれになった子を取り戻して育て、成長して同じ看護師の道を進むまでの時間が描かれる。平山は愛媛県の今治で産婦人科の看護師として勤務しているが、看護師のさまざまな抒情や葛藤がそこに重ねられる。一個人の生の壮絶な軌跡の側面を持ちつつ、子を育てながら働くひとりの女性の思念の集積でもある。時系列による構成が実に効果的だ。

 

掲出歌は歌集後半の「NOW」一連8首の3首目で、子供が看護師となってからの情景が描かれる。前の歌が

 

 

看護師を選りし息子は立葵女人の職場に直立をする

 

 

という歌で、この「子」は男性である。土偶は縄文時代に使われていた土人形であり、埴輪は古墳に並べるために作られた土製の焼き物だ。使われた時代や目的が明確に異なるのでまったく別のものだが、よく知らない人からすれば同じようなものに見えるかもしれない。掲出歌も同様の意味内容で、同じ看護師でもまったく違うということが掲出歌の第一の意味内容だ。「とはいうものの」「くらいは違う」と軽く言っているが、ここに一種の苦みや諦めなどの感情も仄見える。

 

土偶と聞くとき、多くの人は遮光器土偶と呼ばれる眼の部分がゴーグルのような形をしている土偶を連想するのではないか。遮光器土偶は乳房や妊婦を表現した女性像が多く、出産や豊穣、再生に際する祈りの用途に使われたと考えられている。掲出歌では土偶は作者自身を指し、埴輪は息子を指すと読むのが妥当だろう。また昔は男性の看護師(当時は看護士と表記した)は、患者が暴れた際などに腕力が必要とされる精神科にもっぱら配属されていたらしいので、そうした男女による役割の差などもある程度は踏まえられているかもしれない。

 

だが掲出歌は決して性差や役割の違いを指摘する主旨ではない。この歌は「現時点では」という限定があえて省略されていて、今はそのくらい違うけれど、未来はわからないし、一刻も早く追いついてほしい願いがこめられている。もちろんその背後には、自分と同じ道を選んだ息子に対する喜びと誇りも漂う。

 

『手のひらの海』がもし仕事を詠んだ歌のみで構成されていたら、読後感はまったく違うものになっていたはずだ。歌集の味わいの深さと立体的な読後感は、看護師としての見識や思念と、自身の女性や母親としての体験や感情が重なるところから立ち上がっているのは間違いない。近代以降の短歌は人生の体験を語るのに適した詩形である。同時に、表現そのものは人間の思考や哲学をダイレクトに映し出す機能を本質的に持っている。その二つが重なるときに作品が平山独自の輝きを発するのは、平山が短歌形式と出会ったからこそでもあり、そのことを読者のひとりとしてよろこびたいと率直に思う。