花山 周子


黒岩剛仁/わが人生の昭和と平成比べつつ昭和の重さいかんともし難き

黒岩剛仁第三歌集『野球小僧』(2019年・ながらみ書房)


 

五月に元号が平成から令和に変わった。元号にどれだけの意味があるのかはわからないけれど、こうして区切られてみると自分の中に既に平成のイメージみたいなものが出来上がっているのが不思議である。今年の六月に刊行された黒岩剛仁第三歌集『野球小僧』を読みながらそんな感慨に耽ってしまった。

 

この歌集は「一九九五年春」という12首の連作からはじまる。1995年(平7)といえば、阪神淡路大震災にはじまりオウム真理教事件があった年である。この連作の特長を説明するために長くなりますが全首引用する。

 

一九九五年の新春は、仕事始めの日に得意先への挨拶から始まった。

1 創業百年めでたき年のS銀行新デザインの看板確認

 

一月十四日、「心の花」東京歌会新年会で司会。

2 年男三度目の我酒に酔い実現不可能な抱負述べたり

 

翌十五日は「心の花」の編集日。バリ島帰りの俵万智が土産を持参。

3 二日酔いのメンバー多き編集日バリ島土産のバッカスを飲む

 

十七日朝、阪神大震災。いつもより早く得意先へ直行の予定あり。

4 四〇〇㎞先の母からの電話に「何か用?」そこが被災地であるとも知ら

 

5 仏滅の朝に起きたる大地震遠距離にては仕事をこなす

 

二月初旬、結婚準備の妹が上京。

6 「頭の上にテレビが落ちて恐かった」「蒲団被って寝ていてよかった」

三月十八日、妹の結婚式。

 

7 花嫁の兄なる我が写したる写真は八割ピンボケなりき

 

同月二十日、地下鉄サリン事件。

8 車内放送「築地駅ニテ爆発ノ模様。東銀座ニ到着次第地上ヘ上ガレ」

 

9 本願寺交差点には倒れたる男女(おとこおみな)と介助せる人波

 

10 携帯で彼女の母を呼び出だし「回り道せよ」との伝言頼む

 

四月七日、厳戒の東京ドームにて巨人VSヤクルト開幕戦を彼女と観戦。

11 名にし負う東京ドームは閉ざされて桜吹雪も舞い込みて来ず

 

同月二十六日、ウィンドウズ講習会。この年は、後に〈インターネット元年〉と呼ばれる。

12 パソコンが主役となりし我がデスク急ぎの見積もり脇にて書けり

※筆者注:便宜上歌に番号を振っています。

 

1首目は歌集冒頭の一首でもある。「S銀行」というのは、おそらく住友銀行であろう。住友銀行は2001年にさくら銀行を合併。三井住友銀行となる。1991年バブル崩壊のダメージから合併にいたるまでの十年間の間には「創業百周年」というトピックもあったのである。それは、あの1995年だったのだ。黒岩は今年まで電通社員であり(今年定年を迎えられた)、仕事内容がダイレクトに時代のエポックと重なってくるところの面白さがある。

 

2、3首目では歌人としての「心の花」の行事が、4、5、6、7首目では詞書も含め、仕事と阪神大震災と家族のことが、「四〇〇㎞先」、「仏滅の朝」、「頭の上にテレビが落ちて」「ピンボケ」といった具体性によって端的且つフラットに詠われてゆく。どこまでも黒岩個人の地点から詠われることが、阪神淡路大震災という大きな出来事に対する一つのリアルを獲得していて、「そこが被災地であるとも知らず」という、東京における現場性となっている。そして8首目で地下鉄サリン事件となる。これも同様に、事件そのものではなく黒岩個人の判断や行動が日記のように書き起こされる。さらに、11首目では大好きな野球観戦が詠われる。それは、「厳戒の東京ドーム」で行われたのだ。そして最後の歌は、

 

同月二十六日、ウィンドウズ講習会。この年は、後に〈インターネット元年〉と呼ばれる。

パソコンが主役となりし我がデスク急ぎの見積もり脇にて書けり

 

となる。「パソコンが主役となりし我がデスク」ということは、それまではパソコンが置かれていなかったということであろう。「急ぎの見積もりを脇にて書けり」というのは、急ぐときには手書きのほうが早かったのだ。そう、1995年が「インターネット元年」だったのだ。そうだったのだ。

 

この歌集は2005年以降、昨年末までの作品から成っているので、この一連は記憶をもとに構成されたものであろうから、まずはその記憶力に驚かされるのだが、それ以上に私が驚かされたのは、即詠的な筆のタッチが残されている点である。黒岩独自の視点に基づく様々なトピックが事の重みを区別することなく、飄々とした軽いタッチで並列されてゆくとき、「阪神淡路大震災」と「オウム真理教事件」という二つの大きな出来事によって刻印されてしまっていた「一九九五年春」が改めて再生されていくような意外性がある。歌人は一般的には大きな出来事を詠おうとするときには、その重さを歌によって受け止めようと努力するものだ。それは歌の中に「出来事」対「私」、というような一対一の隔離された構図を作り出すことにもなる。けれども黒岩の歌にはそのような気負いが一切ない。その身軽さには時代や社会に対する強かな態度さえも垣間見え、そのような見晴らしのいい一連の構成によって時代の中に置かれた1人の人の生き様が蟻のように俯瞰されて見えてくるのである。ここに蘇らせられているものは、「一九九五年春」のそこにあった、バブルが崩壊したあとの、それでもまだバブルの気分の残る空気と人なのだ。

 

朝イチで局長室に呼び込まれまずはゴルフに誘われており
花曇りドームの中は明るくて五万余の人一球に沸く
プロ級の腕前誇れる人のため通夜も葬儀もゴルフ日和ぞ

 

釣りバカ日誌』ではないけれど牧歌的なサラリーマンの姿がある(ちなみに、『釣りバカ日誌』の第一作は昭和最後の1988年(昭和63年)12月24日より公開されている)。飄々とした黒岩の歌にかすかに滲む、その最後尾に自身が列席しているという矜持はあるいは、

 

家系図の終点として吾はおり今年も咲けるソメイヨシノは

 

こうした自らの生に対する「終点」という位置づけとも重なってくるだろうか。時代の趨勢を担う電通という組織に所属しながら一方で、どこまでも庶民感覚を手放さない黒岩の手法は、時代に所属しながら時代の狭間に滅びてゆくものの姿をあくまでも飄々と描き出す。

 

わが人生の昭和と平成比べつつ昭和の重さいかんともし難き

 

巻末の歌である。黒岩が30歳の年に昭和から平成に変わった。そして今また平成から令和となった。平成を詠い、平成後半の空気をそのタッチによって定着したこの歌集は、令和を目前にして「昭和の重さいかんともし難き」という感慨によってしめくくられるのである。