田村よしてる/いのちあるすべてのものを同胞としたり若冲、ダ・ヴィンチもまた

田村よしてる『いとしきもの』(六花書林・2016年)


 

田村よしてるは1949(昭和24)年埼玉県生まれ。1974(昭和49)年に埼玉大学を卒業して埼玉県内の私立高校に物理の教師として勤務した。小池光が同じ高校で物理の教師だったこともあり、2001(平成13)年に「短歌人」に入会。のちに同人になった。2015(平成27)年に定年退職したが、その年の12月28日に66歳で急逝した。

 

『いとしきもの』は田村の一周忌に合わせる形で上梓された遺歌集である。ご遺族との折衝や資金調達などを田村と同じ高校の元英語教師で「短歌人」同人の野村裕心が行い、選歌と序文を小池光が、原稿作成や校正も「短歌人」のメンバーが担当した。資金の多くは「短歌人」のメンバーからカンパを募って賄われたと聞いた。自分も1口参加し、刊行後に1冊をいただいた。いわば仲間の力が結集して出来た遺歌集であり、どの結社でも同じだろうがこうしたところに結社の底力を見る。

 

 

老猫は重きやまひにふらふらとわづかにみづを舌にすくへり
ダ・ヴィンチの絵に描かれし白貂の解剖学的筋肉の相
「教師なんて糞食らへ」吐き捨て去りし少年あれは俺かもしれぬ
わたくしの灰の中からおもひでにセラミックの歯を拾ふは誰か
わづかにも我が痕跡を遺すべく真白き紙に筆を下ろしぬ
生き方が作り話のやうだから本当の君はきつと寂しい
五十代最後となりし誕生日終日晴れて感傷はせず
恋情が夜のしじまにそよぐころPARCOのAの赤はせつなし
ウインチェスターを抱えしジョン・ウェインの尻大いなる西部はありき

 

 

2001(平成13)年から編年順に編まれた歌を読んでゆくと、小池が序文で「はじめから文語定型歴史的仮名遣いの、ごくオーソドックスでまっとうな短歌であった。きっと水が合っていたのである」と述べる通り、確かに最初から歌の骨格が定まっている。歌の題材は基本的に身めぐりのものではあるが、仕事から家族あるいは自然や自分の人生など多岐に渉り、しかも必要と場合に応じて的確に外部を摂取しているので歌集に振幅があった。文体や事物の見方に小池光の影響は多少感じないではなかったが、間違いなく世間や周囲に対する襟度が歌の味わいに転化されている。これは技術ではなくセンスに類する能力で、やはり小池の言う通り短歌と水が合っていたのである。

 

掲出歌は2012(平成24)年の歌。田村の歌は50歳代から60歳代にかけてのものとなるが、年齢から来る感慨とかすかな不安が作歌動機の根幹に漂う。掲出歌も「いのちあるすべてのものを同胞としたり」はやはり年齢を重ねたことによる一種の余裕がそうした認識を培ったと考えるのが妥当である。下句の「若冲、ダ・ヴィンチもまた」は伊藤若冲やレオナルド・ダ・ヴィンチも自身の同胞なのだとする読みと、若冲やダ・ヴィンチは同じような境地に至っていたとする2通りの解釈が可能だが、自分は後者と読んだ。2人ともいうまでもなく画家で、「いのちあるすべてのものを同胞とした」かどうかは不勉強にも知らなかったが、遺された作品などを考えればそうした考えを持っていたとしても頷ける。若冲やダ・ヴィンチと田村とでは生きた時代も職業も生涯独身であったことや奇人として知られたことなどあきらかに異なるが、妙に共感しほのかな憧憬を抱いている作者像も浮かんでくる。

 

歌の鑑賞からは逸れてしまうが、田村は一言で言えば人物だった。人によって態度が変わることはなく、誰に対しても親身でかつ余裕を持って接していた。飲み会などでも常に率先して人を楽しませつつ、自分も率先して楽しむ。そこには押しつけがましさや先走るようなことは一切なく、こまめに気を配っては話を振ったり自分から話題を出したりしていた。集団における精神的な重心というべきものを持っていた人で、元気ならますます周囲に慕われ頼りにされたのは間違いない。

 

今回のためにあらためて『いとしきもの』を読んだ。亡くなってまだ4年しか経っていないことが信じられない。そんなに経っていない感覚と、もっと時間が経ってしまった実感が自分のなかでない交ぜになっている。

 

『いとしきもの』の巻頭に田村よしてるの写真が掲載されている。いつも掛けていた丸縁の眼鏡を掛けた、穏やかでちょっとはにかんだような笑顔を見ると、この笑顔を折に触れて見ていたことを思い出した。田村は体格のいい人で、彼の持つ安定感は笑顔だけでなく体格から来るものもあったかもしれない。もちろん彼の人間味や襟度がそこからだけではないのは言うまでもないけれど。そして作品を散逸させない記録性の意味もあるが、こうした思いを噛みしめて故人を偲ぶことができるところももちろん遺歌集の重要な意味のひとつである。