河野裕子/灯の下に消しゴムのかすを集めつつ冬の雷短きを聞く

河野裕子第十二歌集『庭』(2004年・砂子屋書房)


 

ちょっと変な言い方になるけれど、河野裕子の歌というのは河野裕子に「河野裕子」というものが被さっているというか、〈わたし〉によって〈わたし〉を抱擁するようなところがあって、そういう歌のあり方が、たとえば、

 

たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり 『桜森』

夜はわたし鯉のやうだよ胴がぬーと温(ぬく)いよぬーと沼のやうだよ 『体力』

 

こういう歌のボディーみたいなものを倍加するというか、豊満さを獲得している。それは単に〈君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠る/『桜森』〉というような身振りの大きさに起因しているというよりも、歌に向き合うために用意された心の在り様といったらいいのか、ひじょうに能動的に歌に息吹を吹き込むようなところがある。近代以降の短歌は基本的にはモノローグな世界だと思うのだが、河野裕子の歌には、言葉を他者に受け渡す意識が明確にあるのだと思うのだ。そういう意味でも、

 

手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が 『蟬声』

 

この河野裕子の絶唱は、本当に象徴的だと思う。この歌はひたすら「あなたに触れたいのだよ」ということを告げている。この歌の読みについては、〈「あなた」と(呼びかけて)あなたに触れたい〉というたった一人に対する想いとしての読み方と、〈「あなた」と「あなた」に〉と並列されている読み方とがあって、議論も起きていたけれど、どちらにしてもそこに置かれている「こころ」は同じなのだと思う。ただ、「手をのべて」が初句に置かれることで、その手が触れようとする心の伸びを思えば、「あなた」と「あなた」、と、そこにいる(心にいる)何人かを歌はたぐりよせるようにも思う。それはやはり家族だろうと思う。家族に受け渡すべき言葉がここには置かれていて、それは彼女の死後の「あなたとあなた」にまでとどく。そういう息吹を、歌に送りこんでいるのだ。

 

言葉を残すこと、そこに対する本気度のようなものはたぶん群を抜いていて、私はそのことがすごくかなしく思える。河野裕子には、自分に対して、人間に対して、それがいつか消えてゆくものであること、残らないものであることに対するとてもシビアな認識があるように思うのだ。そういうところに裏打ちされた言葉に対する信頼がある気がする。

 

灯の下に消しゴムのかすを集めつつ冬の雷短きを聞く 『庭』

 

いっぽうで、今日の一首というのは、とてもモノローグだと思う。「冬の雷短きを聞く」という耳をすましながら見つめられているのは、消しゴムのかすを集める自分の手である。そういうふうに一人の人間を外側から見つめる目がここには置かれていて、それが河野裕子の本来のフォルムを映し出すように思う。

 

私がこの歌をとても愛するのは、ここには河野裕子の人としての物書きとしての自分に対する信頼のようなものが感じられるからだ。誰に与えるでもない自分に対する信頼が、物を書く机に静かに座っている。