花山 周子


今橋愛/この子ねことちがうか/ふとんにくるまる子/このこねこでも/この子/あいする

今橋愛第三歌集『としごのおやこ』(2018年・書肆侃侃房)


たましい、というものがあるのかないのかと言われれば私はあると思っているかもしれない。けれども私はたましいを使ってものを考えたり思ったりしたことはない。幼少期の記憶を辿ってもそれは断言できる。私はひたすら脳を使って生きてきた。そういう自負もあって、批評のなかで「たましい」というようなものを導入することにはかなり抵抗があるのだが、今橋愛の歌の口語、そして、ひらがな、の歌には「たましい」の肌触りがすると思う。この「たましい」をくれぐれも「言霊」みたいなよくわからない妖力と置き換えないで欲しいのだが。

 

わたしうむの。うむよ
はねをぬいて
せかいを

うまれたまちで あかちゃんをうむの。

 

私はこの歌がこわい。
「羽根を抜いて世界を産む」みたいなポエムそのものは目新しいものではないと思うし、こわくはないのだけど「うむ」というひらがながこわい。「うむよ」のあとに「」がないのがこわい。一行空けての「うまれたまちで あかちゃんをうむの。」がこわい。

 

人間というものがたとえば、エデンのりんごを食べて、服を着るようになる。社会をつくり、文字をつくり知識を身に着けていく。それらは全てたましいを武装していく過程でもあったとして、そうすることで安定してこの世界に自分を定着することができる。なんでここに自分がいるのか、という疑問すら、思考を介することで「たましい」は守られているような気がする。

 

だけど、ここにある「うむ」というひらがながき、「うむよ」ということば。「うまれたまちで あかちゃんをうむの。」には、なにもない。足元の地面がもうどこにもない。
この歌に脈打つよろこびすらも、私にはこわいのである。

 

この子ねことちがうか
ふとんにくるまる子
このこねこでも
この子
あいする

 

まるで早口言葉のような「この子」と「ねこ」とそれはもう、どちらでもないし、「ねんねんころりよこころりよ」みたいな子守唄のように「この子」と「ねこ」とはとても近い場所にある言葉で、産まれたばかりの赤ん坊の、かわいいのか、かわいくないのか、これはなんなのか、これ、なんなんだろう、という気持ちが、直接、たましいを撫でまわすように言葉をなぞり、そして「このこねこでも/この子/あいする」と言う。これは思ったのでも宣言でもなくて、たましいがそう言っている。

 

この歌のことばを私も言っていた。赤ん坊を見るたびに確かに言っていた。たましいではなさそうだったけど、気持ちが言っていて、だからこの歌を読んで以来、こどもを眺めているときに起こる、あの、こちょこちょこちょ、とした気持ちが小唄のようにいくども思い出される。

 

産院で、産まれたばかりの、ただ、うにょうにょと動く赤ん坊にお母さんたちが「ん?どうした?どうした?」と緊張して小声で聞いているのを耳にしながら、ああそうか、人間はこうやって生まれたときから、まだ何もない内側を「おなかがすいたのか?」「おしっこがしたいのか?」「おこっているのか?」「かなしいのか?」とのぞきこまれて、そうやってその内側に「おなかがすいた」「おしっこがしたい」「おこっている」「かなしい」というものができていくんだなあと思ったことがあった。

 

今橋愛は、そんなふうに、なでまわし、なでまわされる、さいしょの場所をいつも歌にしている気がする。